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江國香織さんのエッセイに癒された

江國香織さんのエッセイ集「やわらかなレタス」を読んだ。

日常の切り取り方や感性がすてきで、どんどん惹き込まれた。

どのお話も食べ物がとても美味しそうに書かれていて、味、香り、舌触りなど最後までおいしい妄想でいっぱいになりながら楽しめた。
無性に食べたくなったのは、ところてんとのり弁とフランスパンとポタージュ。

お腹が空いている時に読むと、胃がくぅ〜となって、幸せな空腹感が増す。あれもこれも食べたい!と、食いしん坊な自分がでてきた。
お腹がいっぱいの時に読んでも美味しそうなのは変わらず、ゆっくりと味わいながら読めたので、これはこれでよかった。


その土地でとれたものをその土地でたべる、というのはどうしてこんなに特別な味のすることなのだろう。たべものと空気の親和性が高いから、たべものがごく自然に、いい顔になるとしか思えない。

やわらかなレタス「旭川のソーダ水」より引用

読んでいて、好きだなぁと思ったところ。
たべものと空気の親和性って、なんて魅力的な表現だろう。

旅行に行ったとき、その土地でとれたものをその土地で食べる機会が多いが、特別においしく感じるのはただ新鮮なだけではなく、そういうことだったのかと思った。

そういえば、普段買い物する時も、野菜や果物はほとんど地元のものを買っている。
それが一番おいしく感じるのだと無意識でもわかっているかのように。


夫婦ってねじれてるなあ、と私は思う。あまりにもねじれすぎていて、何回ねじり戻した(?)ら元に戻るのか、見当がつかない。

やわらかなレタス「薔薇と蒲焼」より引用

江國さんが旦那さんと鰻を食べに行ったときのお話が面白く、その中で出てきた一文。
やっぱり長く一緒に生活していると、ねじれていくよね。とこっそり共感した。


「フライパン問題と目玉焼き」というエッセイの中で、目玉焼きという日本語にぎょっとすると書かれていた。目玉…  確かに。
目玉焼きは英語ではサニー・サイド・アップ、スペイン語ではウエボ・フリートという。

ここまで読んで、私が今までずっと気になっていた疑問が解けた。

夫(母国語がスペイン語)がたまに目玉焼きを作ってくれるのだが、使う油の量が結構多いのだ。
小さいフライパンに大さじ3〜4くらいの量。
たっぷりの油の中に卵を落とす。

油は一度しか使わないようにしているので、目玉焼きを作るだけでこの油の量はもったいないとずっと思っていた。
だけど、せっかく作ってくれているので何も言えない。

スペイン語で、ウエボは卵、フリートは揚げる、油焼きするという意味。

夫の中で、目玉焼きは「揚げるもの」だった。

もやもやしていたことがわかってすっきり。

ねじれていたところがひとつ元に戻ったかもしれない。(ねじれていると思っていたのは私だけだけど)


*  *  *

この本を読んで、気にするポイントとかすぐびっくりしてしまうところとか感情とか、共感できることがたくさんあった。
こういう視点で書けばいいのかと、エッセイを書くヒントにもなった。

細かいことに気がつきすぎて、その気づいたこととか感動したことを人に話してもあんまり理解されないから、今まで自分の中で封印していた。
湧き出てきた感情や思考をなかったことにしてしまうのではなく、もっと自由に書いてみたいという気持ちになった。



江國香織さんの文章、ことば、感性、柔らかさ、優しさに癒された。
癒されるエッセイってすてきだなぁと思った。
他のエッセイも読んでみたい。




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おまめ
みなさんの幸せが続きますように。

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