練馬春日町のバッティングセンターは看板を見る場所
実は小学1年から6年まで少年野球のチームに入っていた。入った理由は「兄が入っていたから」というありがちなもので、野球というスポーツが好きとか、プロ野球選手になりたくてという感じではない。
兄やその友達と野球をなんとなく楽しめれば良かったのだけど、スポーツ至上主義な我が家にはびこる「本気でやり抜きなさい」という教えのもと、練習は休みなく行き、レギュラー争いに加わった。
4つ上の兄の世代が引退してからは、リーグ戦で1位から最下位に転落してしまい、とにかく弱かった。試合になると相手の攻撃が永遠と終わらずに、キャッチャーとして防具をつけて座っていた私は「ああ、恥ずかしい。いつになったら終わるんだ」って毎試合思っていた。
自分はヒットを打っても、盗塁しても、絶対に勝てない。そして「辞めたい」と言っても親は絶対に辞めさせてくれない。厚いガラスでできた瓶に閉じ込められているような感覚で辛かった。
ただ、その中でも面白いと思える大人がいた。「監督」の名称で呼ばれていた勝田さんだ。息子が少年野球チームに入っていたのをきっかけにコーチとなり、野球好きが高じて(?)監督になったらしい。
当時、おそらく50代くらいで、白髪混じりでがりがりに痩せた体型。柔和な笑みを浮かべながらも、野球が始まると冷静な目つきで選手たちを見ていて迫力があった。最初は「どことなく怖いおじいさん」という印象を持っていた。
「おーい、環。」監督は普段、ベンチに座って練習を見ているだけなのに、その日は珍しくボール拾いをしていた。守備練習の順番を待っている私と同級生に、監督が声をかけてきたのだった。
監督は右手に2つの軟式ボールをもち、私と隣にいる同級生に向かってそのボールを投げようとした。一瞬、思考が止まる。「え、2個とも投げられたら取れないんだけど」。監督の放ったボールは私と同級生のそれぞれ真正面に飛んだ。互いにキャッチすると同級生と目を合わせ「すげー!」と盛り上がった。監督は練習が終わったときのような柔和な笑みを浮かべ、その後も2回、3回と同じことをして見せた。
そうしてなんとなく、監督は面白い人なんだなという印象になっていった。
大嫌いだった少年野球チームを引退し、どこからか監督は看板屋さんをやっているのだと聞いた。たしか親だったと思うが、街の中のあれやこれやの看板が監督の作ったものだと教えてくれて、教えてくれた一つにたまに行っていた練馬春日町のバッティングセンターの看板があることを知った。
後日、なんとなく通るとその看板は何回も見たことがあるデザインで、「たまにバッティングセンターに来るとこの看板を見てワクワクしていたな」と気づいた。それを監督が作ったと考えるとうれしかった。もっとバッティングセンターで練習していれば良かったかも、とも考えた。
そして数年後、監督は亡くなった。古いアパートに住んでいた監督は、子供ながらに裕福ではないとわかったけど、あの柔和な笑顔、そして2つのボールを違う方向に投げる特技を思い出すと、自分にとって代えがたい存在のおじさんだったのだなとしみじみした。
私が打席に立ったときにサインを出してくれる真剣な顔や、30番の背番号をつけたがりがりの後ろ姿に、私は信頼もしていたのだと思う。
葬儀は、6個か7個上の先輩の実家である寺で行われた。そこで知ったのだが、私が入る前の少年野球チームは強かった時期があったようで、先輩たちの中には甲子園に出場する高校に進学している人がちらほらいた。その黄金期を育てあげ、私たちの代で弱くなっても見捨てなかった勝田監督って本当に懐の深い、そして子供たちを愛してくれていた監督だったのだろう。葬儀に来ているいろいろな制服の先輩たちを見て、監督ってすごい人だったのだなと思った。
私は相変わらず野球があまり好きではない。小学校の苦々しい記憶が蘇るのに、テレビやラジオではよくやっていて、新聞にも多くの記事が載る。「なんで俺ができなかったものがこんなに社会で流行っているんだ」と泣きたくなる時だってある。
だけど、私がほんの少し野球に関わったときに、なんだか面白くて温かいおじさんがいた。野球が嫌いでも、監督の記憶だけは大切にし続けようと思っている。