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永田町で気軽に

親友とは政治の話をする。
それは、自分が相手を親友だと認識する一つの要素になっている気がする。
そのくらい、政治の話は身近にしたいと思っている。

2021年5月末、親友たちのLINEグループで「デモに行かない?」と連絡した。親友たちは遠方に住んでいたり、仕事だったりしたが、桃香だけはタイミングが合って、一緒に永田町を目指した。

その頃与党が、LGBTQなど性的少数者への差別をなくすために必要だとされていた法律を審議せずに見送るという事態が報じられていた。社会の中でなかったことにされ、人権を当たり前のように尊重されていない当事者たちを、これからも放っておくというメッセージだと私は考えた。家族や友達、同僚などに当事者がいるかもしれないのに、自分にとっては関係ないからと目をつぶる姿に怒りしかなかった。だから永田町のデモへいった。


初めてのデモ会場は、なんだか悲しいなと思った。それは、演説をしている人や聴いている人、運営の人すべてが怒り、悲しみ、やすせない思いを持っているように感じたからだ。それを平然と無視する与党、無機質に交通整理をしている警察官(別にそれが悪いことではないけど)たちとの対比もあって、一層悲しくなった。

胸が引き裂かれそうになりながら、プライベートな情報まで開示して訴える人々。こうして声を上げてくれることにありがたさを持ち、連帯することしかできなかったが、とにかく悲しかった。

デモ中も桃香とは話していたが、それは目の前の悲しさを少しだけ和らげるための会話でしかなかった。二人で思ったこと、驚いたこと、初めて訪れてわかったことなんかを手あたり次第に話していた。そうしないと、そうやって心をなんとなくぼかさないと泣いてしまうと思っていた。


デモがひと段落してから会場を離れ、慣れない永田町あたりを歩いた。桃香とは全く関係ない話をして、腹の底から笑った。普段はあまり来ない街浮かれながら、そうして二人でなんとか先ほどのデモを飲み込み、日常に戻るためのステップを一緒に踏みながら、電車に乗り込んだ。

日々、社会制度を前につらくなることが結構ある。それは自分が性的少数者の当事者だということをはじめ、ほかにもマイノリティな部分があって、まるでその場に自分がいることが想定されていないようなことに直面するからだ。

「税金控除」、「婚約者の有無」、「緊急連絡先(家族)」。こういう字面をみるだけで、『私の同性パートナーは社会に認められていないんだ』っていちいち考えなければいけない。「お子さんはいますか?」「最近LGBTへの配慮もしないといけないでしょ」。そうやって会話に出てくるたび、『あ、俺はLGBT当事者じゃないという前提で話が進められているんだ』と置いてけぼりを感じる。つまり私は私としてではなく、私は「異性愛者の男性」というラベルで人から見られているのである。

だから親友と政治の話をする。それは私という人間がこの社会で生きているんだということを表明するため。誰かと同じではなく、環として生きているんだ。

そして、誰かの困りごとやつらさにも寄り添いたいから政治の話をする。「だったら政治家になればいい」という人もいるけど、いつもそうやって論点をすり替えて私の生活を、政治を、考えをまとめないでほしい。日々、政治の話をすることは政治家にだけ許された特権ではない。

社会をつくるのは政治家ではなく、私、私たち。

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