「奇子」は役に立つのか
ヨルゴス・ランティモス監督によるユニークすぎる映画『哀れなるものたち』
アカデミー賞では、エマストーンは主演女優賞に輝いたり、衣装デザイン賞、美術賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞なども受賞、どこからどうみてもモンスター映画だ。
成人女性の身体に幼児の脳みそを移植した主人公ベラの成長の物語だ。
序盤はセックスに明け暮れ、終盤は学問と社会活動を通じ、成熟した精神を育み男性優位社会にパワフルに蹴りをいれ、中指を突き立てるといった内容だ。映画としてとても面白かった。
女性の性欲、社会進出と自立、テーマが女性解放なのは明らか。
しかしメッセージだけみると映画は1992年の原作小説と比べると大事な部分が欠けていると言わざるを得ない。
アラスター•グレイの小説版では、フェミニズムにさらに数歩踏み込んでいる。
大半のページが割かれているベラのストーリー、ベラの活躍を最後も最後に小説では否定しているのだ。
パワフルなベラの生き様は、あまりにも理想化された女性像であり、ジジイの妄想だと切っている。
なぜ映画版が小説が持っていた真のメッセージを捨ててしまったかはわからないけど、ベラを理想化したまま、都合良きアイコンにしたというモヤモヤは後を引く。原作から30年を経て、目減りした着地で良いのかしら、と思わなくもない。
1972年の手塚治虫の漫画、「奇子」も『哀れなるものたち』と重なるところがある。
奇子は、20年幽閉されて大人になってしまった地獄の生い立ちを持つ主人公である。
奇子も成熟した身体に、学問や社会生活の機会を与えられないまま外の世界を知ることになる。
ベラと同様に、セックスというコミュニケーションしか知らない大人になってしまう。(これが理想化されているといわれたら、そうかもしれない)
ストーリーは、戦後まもないレッドパージが行われていたGHQ占領下の日本。片田舎を舞台に豪族が時代とともに失われつつある権威を守るため、一族の闇を一才合切を子供に背負わせる、狂った寓話だ。強烈に面白い。
奇子にはフェミニズム的な要素はない。グロい男根主義が最後まで根を張り、奇子が奇子として勝ち取った人生がないのだ。彼女を生かしたのは母性だが、徹頭徹尾、男が必要な女として描かれる。
奇子だけではない、登場する女性はみんな男に蹂躙され、不幸は不幸のまま幕を閉じる。
つまり、めちゃくちゃおぞましく胸糞が悪い。
漫画から匂い立つ時代性は覆らない、ありのまま俗悪ともいえる「奇子」は、時代とともに更に黒くなるだろう。