時代小説『龍馬が月夜に翔んだ』第12話「無用なものは切り捨てよ」
「坂本さんが、帰ってきているのは知っていました。あの人は薩摩に来た時に、わしの屋敷に泊まってもらった。お龍さんも、一緒だった。あの人は面白い人だ。一晩中、話をしてくれた。これからの世は、刀や大砲ではなしにそろばんと船の時代になるとしきりに言っていた」
「その坂本先生に、今日近江屋で会いました」
「そうかですか、坂本さんにはそこらにいるよりも、むしろ薩摩藩邸に入るように勧めたのだが、まだそこらへんにおられましたか」
今まで柔和だった吉井の顔が曇った。
庭の鹿威しの音が響く。
「危ないのう、土佐藩が一番危ないのう。あそこは、土台がしっかりしていないから、何処でどう転ぶか分からん。最後の最後で、ひっくり返るかもしれないから危ない。もしものことがあれば、坂本さんらも切り捨てられるかもしれん。その点、薩摩藩は白黒がはっきりしている。むしろ、今の時点では、薩摩藩の方が安心だ」
「幕府側に付いたとしても、ですか?」
「坂本さんは、幕府側には付かん。もっと先を見据えている。その先は、薩摩藩が考えているより大きい。坂本さんのことは、薩摩藩として恩義を感じているし、これからどうしても必要な人材なのだ。ただし、ごく一部の人間を省いてだが」
伊東甲子太郎は、先程半次郎が言っていたことを思いだした。西郷さんの腹積もりだけが、誤差を生じさせているような気がした。
「西郷さんのことですか」
対座している吉井が立ち上がった。
そして、襖を開けた。
冷気がすっと入って来て、伊東は頭から冷水を浴びせられたような寒気を感じた。
「午前中は雨模様だったのに、すっかり晴れましな。今夜はいい月夜になりそうですね」
鹿威しの音が近くなったような気がした。
近くに人がいないのを確かめて、襖を閉めた。
吉井は元の席に戻らず。伊東と並ぶように座った。
耳を近づけて小声で、
「西郷さんは何のために薩摩に帰られているか、ご存知か?」
「先程、中村様に薄々は伺いました」
目の前で対座していた吉井が席を空けたので、床の掛け軸が目に入る。
その掛け軸は王義之作で、『大儀就成』と書いてある。
「長州と手を結んで、新しい世を作り替える準備のために帰った。伊東さん、新しい世とはどういう意味かお分かりか?」
「大政奉還し、王政復古の世に戻すということですね」
伊東は自信ありげに答えた。
「誰でもが、そう思う。当然だ。しかし我々が目指すのは、回天のみ。土佐藩はもはや必要ない。足手まといになるからだ。長州は天、薩摩は王だ。それ以外は無用。今お話しできるのはそこまでだ」
「それ以外は、無用」伊東には、その言葉が響いた。
吉井の柔和な顔から、発せられた言葉が返って凄みを帯びていた。
土佐藩だけでなく幕府も、我々新選組も当然その中に入る。
一刻も、早く、近藤勇にそのことを連絡しなければならない。しかし、建前上自ら直接新選組の屯所に赴くことは出来ない。
「西郷さんは、刀を抜いて白黒をはっきりさせようと迫るお方だ。私は、少し違う。世の中はそんなに甘いものではない。今、白黒をつけたとしても、必ずひずみが出る。徳川とて、二百六十年余り。薩長が新しい世を作ったとして百年そこらは持つかもしれんが、二百年も持たんだろう。幕府にも小栗上野介のような逸材もおるし、福井藩には、由利公正がおる。土佐藩にも坂本龍馬がおる。それらの金銀物産に明るい者が必要なのだ。刀のような武ではなく、算盤の商いが世界を牛耳る世の中になる。これは坂本さんが長崎で、外国人から学んだそうだ。わしの家に泊まった時にしきりに話してくれた。それで、わしも考え方を変えた」
ふと、横にいる吉井の顔を窺うと固く目を閉じ、顔をゆがめながら何かに必死に耐えている様子。
「伊東さん、坂本さんを頼む。あの人は薩摩藩というよりも、これからの日の本に必要な人だ。今が一番危険な時だ。守ってあげて欲しい。もし何かあれば、私に直接知らせてください。くれぐれも直接ですよ。お願いします」
「分かりました」
(新選組の伊東が)と口に出そうになるのを押さえた。
「この伊東が、必ず守ります」
このまま、近江屋へ引き返すことも頭をよぎったが、面倒なことになるかもしれないので、ひとまず高台寺の御陵衛士の屯所に戻ることにした。
そこから、新選組に使いを出そう。
薩摩藩の門を出た。
入れ違いに小包を抱えた小僧が入れ違いに入って来てすれ違った。
小僧の分際で、御勝手口を使わず正門から入る礼儀知らずの小僧。
薄暗くなり、顔は覚束ないが見覚えがある茶の格子の綿入れ。それも、つい最近に見た。
そうだ菊屋の峯吉だ。
振り返ると向こうも気が付いたのか、さっと門扉の陰に身を隠した。
門番の面前で、もはや引き返すことはできない。
明らかに峯吉。
怪しい。
あいつも、薩摩藩に通じているのか。
ということは、近江屋の情報が筒抜けになっている。
坂本龍馬の身に危険が迫っている。
急がねば。