文章を読むということ
最寄駅から自宅まで歩きながら書いています。新シリーズです。
このシリーズでは、国語について考えたとりとめのないことを、つらつらと綴っていきます。
第一弾は「文章を読むということ」についてです。
最近特に思うのは、読むという行為は全体であり、不可分だということです。分かりにくいですね。自分でもまだ言語化しきれていません。(そういう言語化以前のものを整理する目的もこのシリーズにはあります)
国語のテキスト・参考書は基本的に、指示語や接続語など、個別のスキルの習得に主眼を置いたものがほとんどです。なかには習得すべきスキルが細分化されすぎているものもあります。私は、実はこれが読むという行為の全体像を見えなくしている元凶なのではないかと思っています。
確かに、指示語や接続語は読むときに意識するポイントではあります。しかし、細分化されたひとつひとつのスキルを習得し、それを使いこなせれば「読める」という状態に至れるでしょうか。文章を読むときには常に複数のことを意識し、さまざまな視点で言葉を捉えます。それらを統合する何かがあるはずなのですが、先に述べたような教材はそれを示しません。というか、その「何か」を表す言葉を持たないか、指導者が気づいてすらいないこともあるでしょう。私もまだ捉えきれていません。ただ、ここを追究することが今後の課題であることは確かです。
以上を踏まえて、現時点での私の考えをまとめてみます。
読むということは、基本的に目の前の言葉に注意を払い、その意味を汲み取ろうとすることで、それが単語、文、形式段落、意味段落、場面、文章と認識の範囲を広げていき、最終的に要旨や主題をつかもうとすることなのではないでしょうか。そこに通底するのが「目の前の意味を捉える」という意識であり、それを他の言葉との有機的な連なりとしてとらえ、文章全体の中に位置づけることで、文章の理解、つまり読むという行為が達成されるのではないかと考えます。
と、自宅につきました。
少し冗長で抽象的になってしまいました。
まだまだ答えには辿り着きませんが、今回はこの辺で。
いろいろとご意見・ご感想をいただけると幸いです。
お読みいただきありがとうございました。
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