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オカムー
2021年8月8日 13:25
人は何故悪に魅入られるのであろう? ヒエロニムス・ボッス然り、曽我蕭白然り歌川国芳然り。 古今東西、芸術と言われる領域で「真善美」と同等もしくはそれ以上に、創造の才覚は「偽醜悪」にむけて喜々発揮されてきたという事実は刮目されて然るべきであると思います。 「真善美」が増す程その影となる「偽醜悪」は色濃く強くその身をそ
2021年8月5日 18:24
出自を明晰にするという事において、「信じる」と「問う」はその道程を同じく歩む。しかし出自の地平を前にしたその後の方位の取り方は真逆であるように思う。「信じる」は出自との「距離」を縮め合一を暗に志向するだろうし、「問う」は出自そのものに問いかける為に「距離」を必要とするだろうから。2021年8月5日 岡村正敏
2021年3月5日 17:33
●絵画にとって「枠」とは何か? ●「窓」である。と言ってみて少し違う感じがする。 「窓」ではあるのだけれども窓ではない。そういう気がします。つまりそは疑似的な窓。それによって示されるのは何か?区分であろう。 ●区分と言ってもいろいろあるのだけれども、絵画にとって「枠」が示唆する区分とは、並列的な区分ではなく(突き詰めれ
2021年2月28日 14:12
生と死は共に補完し合う。という事の理解はそんなに難しい事ではないのだろうけれども、そうしたうえでやはり私たちは生に軍配をどうしてもあげてしまう。死生学の定義からして「人間の『死』に焦点をあてることで人間の「生」の営みをとらえ直す」のであるならばやはりそれは「生の為の死」であるのだと思わざるを得ない。然るに「死の為の生」という捉えなおしはしてはいけないのだろうか?換言すれば「人と人間は真に死ぬ為に生