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哲学・日記・メモ 「真善美と偽醜悪と・・・」
人は何故悪に魅入られるのであろう? ヒエロニムス・ボッス然り、曽我蕭白然り歌川国芳然り。 古今東西、芸術と言われる領域で「真善美」と同等もしくはそれ以上に、創造の才覚は「偽醜悪」にむけて喜々発揮されてきたという事実は刮目されて然るべきであると思います。 「真善美」が増す程その影となる「偽醜悪」は色濃く強くその身をそそり立たせる。そして人を魅惑してやまない。そしてそれは、あくまで二項対立に拘りる。二項対立を包み込み無効に仕向ける「根底・根源」の観念を嫌悪し、これを破壊せんとする意志であるかのように、禍々しく映えて「真善美」に対抗する表現として、自らそのスタンスを限定する。その悪魔的なスタンス。しかし私は、そこにこの現象世界に生きる上での誠実さを覚えてしまいます。裏返して言えば「真善美」と「偽醜悪」の対立の「根底・根源」を「真実」とし、この「真実」を現象世界で体現できるという教説、志向には、訝しさを覚えてしまうのです。「根底・根源」は在るかもしれないし、体現できるかもしれない。しかしそれは「末期の眼」としていよいよ最後を観念した時にだけ語られてよいものではないだろうか。換言すれば、「生活のステージでかかわる言説」と「末期の眼で語られるステージ」は弁別されなければならないのではないか・・・と思うのです。 初めの問い。人は何故悪に魅入られるのであろう?と言う問いに立ち返ろうと思います。人は何故悪に魅入られるのであろう?古今東西、芸術と言われる領域で「真善美」と同等もしくはそれ以上に、創造の才覚は「偽醜悪」にむけて喜々発揮されてきたという事実に答えるならば、つまり私はこう答えたたいと思います。「根底・根源」をこの生活のステージで体現しようという事への訝しさへの、アンチテーゼ、その具体的な志向が悪への志向であり偽醜悪への志向である、と。
2021年8月8日