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哲学日記・メモ

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2021年11月の記事一覧

雑考・日記・メモ「復讐ってなんだろうと問う事」

雑考・日記・メモ「復讐ってなんだろうと問う事」

今日、農作業をしながら考えていたこと。
「復讐」って何なんだろか?
この問いに、感情のステージのその臨場感そのものでもって答えるのではなくって、理性・悟性のステージで「何なんだろうか?」と問い答えようとするのならば、はたしていったい「復讐って何なんだろか?」。
色々と考えましたが、答えとして纏まるまで至りませんでした。
私は「復讐心を無くしましょう!それでは救われませんから・・・」と宗教的に答える

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雑考・日記・メモ「エビもタコもイカも感覚を有する。そんなの当たり前!と思う事を問う」

雑考・日記・メモ「エビもタコもイカも感覚を有する。そんなの当たり前!と思う事を問う」

https://gigazine.net/news/20211122-lobster-octopus-crab-sentient-being/

この感性と言うのか何というのか・・・私には良く解りません。エビもタコもイカも感覚を持っているし、茹でられれば苦しいに決まっています。わざわざ科学的に証明しなければそれは文化にはならないのだろうか?
と、先ずは欧米文化に対するステレオタイプな批判をしてみて

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雑考・日記・メモ「生涯学習者の共同体としての探究の共同体はありうるのか」

雑考・日記・メモ「生涯学習者の共同体としての探究の共同体はありうるのか」

生涯学習の当事者性を考えた時、「探究の共同体」は何も「こども哲学」の特許ないだろう。「探究の共同体」は広く「生涯学習」と言う視野から考えてみても良いのだから。だから私はいわゆる「単なる年齢としての子供」を対象とした「子供哲学」にはどうも馴染めません。と言うのも私が関心があるのは単なる年齢の区分ではない「老人=こども」であり、そのような「老人=こども」が自ら自治する「生涯学習」であるのだから。

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哲学・日記・メモ「アートと哲学・直感とひらめき・形式と内容」

哲学・日記・メモ「アートと哲学・直感とひらめき・形式と内容」

アートと哲学・直感とひらめき・形式と内容

アートは直感。哲学はひらめき。
そして直感は形式。ひらめきは内容
形式は言葉にできない故に直感であるしアートである。内容は説明しうる故にひらめきであり哲学である。
だからアートは形式である。だから哲学は内容である。
そして形式は内容の沈殿から抽出されるものである、とするならば、形式の涵養の前提には内容がなければならない。
かくしてそもそもの始まりには、形

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哲学・日記・メモ 「信じる者と疑う者と問う者について」

哲学・日記・メモ 「信じる者と疑う者と問う者について」

信じる者と疑う者と問う者について

人が何かを語った時、「問う者」は「この人は何故このような事を語るのだろう?」と自らに「問う」。「本当にそうか?」と彼を「疑う」のではない。「何故?」と自らに先ずは「問う」。だから彼は「問う者」なのだ。

そして「問う者」は「本当にそうか?」ではなく「何故?」と問う故に「疑う者」ではない。「疑う者」は「本当にそうか?」と「疑う」のだから。と同時に「問う者」は「信じ

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哲学・日記・メモ 「物語とメモと」

哲学・日記・メモ 「物語とメモと」

物語とメモと

私は昔からメモ魔で、と言っても何でも見たこと聞いた事を記しておくメモ魔ではなくて、見たこと聞いた事に対して考えた事をメモししているのだけれども・・・そんなメモ魔なようです。

しかしそうしているとメモが溜まってくる。だからたまにはそれらを見返して新たなメモを作ったりしてもいる。するとそんな感じでメモが何となく形になって、散文になったり詩になったりしてくるのだけれども、私は作品の為に

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雑考・日記・メモ「絵本 エミリー」

雑考・日記・メモ「絵本 エミリー」

エミリー・ディキンソンをモティーフとした絵本。

エミリー・ディキンソンは実在した人物です。詩人である彼女は生まれた町から出ることは無く生涯を終えました。世界各国の多様な文化を知る事もなく、それに触れる事もなく。

しかしだから不幸であったのか。

「天国をみつけられなければ ー 地上で ー 天上でもみつけられないでしょう たとえどこへうつりすんでも天使はいつもとなりに家を借りるのですからー」

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哲学・日記・メモ「対話において問いを深めるとはどういうことか?」

哲学・日記・メモ「対話において問いを深めるとはどういうことか?」

対話において問いを深めるとはどういうことか?

問いを深めるとはどういう事か?
もしも、論理的に問いを深めるのならばそれは、論理的な間違いや至らなさを指摘し正しあうという事に尽きるのではないだろうか?しかしそれは何だかつまらない。既存の論理学に如何に整合を求めるか、と言う志向であるのだから。それは論理に適った必然でしかないが、これも探究であるし深まりでもあるのだろうとは思います。

しかしやはりそ

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雑考・日記・メモ「稀人について。自分が住んでいる街よりも、住むことのない街により関心がいくのは何故だろうか?」

雑考・日記・メモ「稀人について。自分が住んでいる街よりも、住むことのない街により関心がいくのは何故だろうか?」

稀人について。自分が住んでいる街よりも、住むことのない街により関心がいくのは何故だろうか?

自分が住んでいる街よりも、住むことのない街により関心がいくのは何故だろうか?稀人(客人)が来訪する理由は、来訪がその土地に幸をもたらすにせよ、稀人(客人)にとってはその土地に幸をもたらそうという意図はなく、歓待を受けると言う、来訪する側の幸を動機とするのかもしれない。と思う。あくまで稀人(客人)側の動機と

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詩・散文「右手と左手」

詩・散文「右手と左手」

右手と左手

「右手」とは「左手の右側の手」であるのならば、「左手」は「右手の左側の手」であろう。
別に「手」じぁなくったっていいし「手じゃない何か」である必要もない。単に「左右の定義」として考えてみると、
「右の定義は左の右側」であるし、「左の定義は右の左側」である。とすると、この定義は真であるか偽であるか?

2021年11月1日 岡村正敏

雑考・日記・メモ「対極主義の罪」

雑考・日記・メモ「対極主義の罪」

岡本太郎の最終的な表現スタイルを「対極主義」だとすれば、それは大阪万博で完結しているはずである。太陽の塔のそれを言っているのではない。丹下健三のウルトラモダン建築をぶち抜いてそそり立つ太陽の塔の、この、モダンとプレモダン、もしくはイデアとアーキタイプの対極の実現だけが唯一の太郎の作品なのだと言いたいのである。
縄文時代の復古を想わせる太郎の太陽の塔だけを見れば、それは復古でありパロディであるにすぎ

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