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2021年10月の記事一覧
哲学・日記・メモ「俯瞰するアポロンと抱擁するディオニソス」
メモの前のメモメモ
ディオニソスとアポロンの対立そのものを俯瞰できるのはアポロン。対立そのものを抱擁するのはディオニソス。もっと正確に言えば、俯瞰するアポロンと抱擁するディオニソスは理性を共有している。言い換えれば理性がアポロンを介して対立を俯瞰したり、理性がディオニソスを介して対立を包み込み抱いている。単なるアポロンと単なるディオニソスにはそれが出来ない。俯瞰も抱擁も成しえない。
2021年
雑考・日記・メモ「福祉としての生涯学習」
福祉としての生涯学習
大学に行かなくては学べない訳ではない。
学ぶという事は自ら探究し学ぶ事だと思うから。
そして「探究」は知識の学びだけではなくて、五感と悟性と理性を総合した「探究」であるし、「探究」は「問い」をモティベーションとしている筈である。そしてそれは「問い」をモティベーションとする故に信仰は異なる志向を持っている(「問い」の前には「驚き」がある。「信仰」の前にも「驚き」は在る。そこま
雑考・日記・メモ「スピード」
メモの前のメモと言うか問いの投げかけ。
パブリックとしての悪を生じさせる悪(形而上的悪・存在論的悪)があるとしたらそれは何だろうかな?コミュニティとしての悪や、二人称の「あなた」に対する悪じゃなくって(パブリックな悪を生じさせる悪は「パブリックな悪」を生じさせるだけでなく「コミュニティ」と「あなた」を薙ぎ倒す悪であるから)。
私はスピードだと考えています。変化が速すぎる。スピードは、悪。かもしれな
雑考・日記・メモ「アンビバレントとアンビュキアス(または寒月と朧月夜)」
メモの前のメモメモ。
ほぼ毎日もにょもにょと考えている、もにょもにょな毎日です。
・・・うーん。
アンビバレントとアンビュキアス。
ambivalent と ambiguous 。
似ているようで全く異なる。
二項対立図式を前提としているという前提は同じでも、その後が全く異なる。
私は・・・ambivalent を支持するかな。
曖昧さを曖昧さとして受け入れるだけでは物足りなく感じてしまいます
雑考・日記・メモ 「袋考」
「袋考」
こんな事を考えてみる。
「もしも世界が『袋』だったとしたら、世界は本当に『袋』なのかな?何故って、もし世界が『袋』だとしても、『袋』の内と外を別けている袋の部分に『袋』はあるのかな?」
そしてこんな事も考える。
「『袋に包まれている』って、『包まれるために包ませている』のかな?それとも『包ませるために包まれている』のかな?」
あるいはこんな事も、考える。
「もしも世界が『袋』だった
雑考・日記・メモ「自然主義絵画→私絵画→世界丸ごと創造系アート」
「自然主義絵画→私絵画→世界丸ごと創造系アート」の事
「自然主義文学→私小説→ハイ・ファンタジー」と言う文学史の系譜を仮定するならば、「自然主義絵画→私絵画→世界丸ごと創造系アート(※)」と言う系譜はあってもよい。
アウトサイダーアート領域ではヘンリー・ダーカーやアドルフ・ヴェルフリ然り。
漫画では「ドロヘドロ」や「空挺ドラゴンズ」等。
あるいは「ヴィオニッチ手稿」もそうかもしれない。
雑考・日記・メモ 「自然・恐ろしいもの・じねん」
自然もじねんも考えれば考えるほど私には恐ろしい。でも好きな方は多い。自然やじねんの概念をプラグマティックに使用するのなら私も勿論大賛成ですし、大好きです。でも本当にまじめに考えるとそれはとほうもなく恐ろしい。だからあくまで私はプラグマティックに好き、と言うくらいが私自身に誠実であります。本当に好き(≒善)なんて、きっと末期の眼でしか語れないと思うから。その方が誠実。少なくとも。私にとっては。
真剣
雑考・日記・メモ「まるで世界」
可能世界の実践の最前線(理論じゃなくて実践の)?
1984年。作詞 別役実。歌 山田康雄 作曲池辺晋一郎。
「みんなのうた」で記憶していた「まるで世界」は、今現在の私の考えるスタンスにピッタリ適っています。
https://www.dailymotion.com/video/x11uncx
これ、「可能世界の哲学」と言ってもいいし、「ハイ・ファンタジー」や、「ヘンリー・ダーカーやアドルフ・ヴェルフ
詩・散文 「鏡面の真っ平らな世界から始めよう。それは真っ平らな世界の破綻を問う事であり、真っ平らな世界の信望とは異なる」
「鏡面の真っ平らな世界から始めよう。それは真っ平らな世界の破綻を問う事であり、真っ平らな世界の信望とは異なる」
真っ平な世界は、ただ一つの面が何処までも広がっている無言の世界なのか
真っ平らな世界は、無数の山頂が等しい高さに犇めいている多弁な世界なのか。
どちらにせよ、真っ平の世界に立った時、
私は私だけが起立している事を知るのであるが、だからと言って自分を真っ平らにしようとしてはならない。
雑考・日記・メモ 「騙しの文化は魅力的」
あれ。お酒が入ったせいか、急に騙しの文化に興味がわいてきました。手品から詐欺まで。騙すにも色々あって、詐欺のような騙しもあれば、「驚き自体を目的とした」驚きの提供者としての近代の手品もある。昆虫の擬態もあれば男女の駆け引き、政治もそうだし、教育も、教師は自分自身を児童の成長に寄り添いながら導くと言う点で、自身を騙してもいる。そしてまた偽醜悪も自身への騙しであるのだとしたら、真善美にはない複雑怪奇な
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