書くことは意識的になるということ
生活をしているとふと言葉が降りてくる。それは私の言葉なのだろうか。もはや「私の」という所有の概念を超えたところから届けられたようなユニバーサルな、普遍的な言葉がときどき私自身を救ってくれます。救いのような言葉に繋がることで、私は私を軽やかに調律してきたのかもしれません。
私の携帯のLINEメモやノート、iPadのメモなどには、そのときどき浮かんだ言葉が支離滅裂にただ並んでいます。いつの間にか賞味期限が切れて風化し、行き場を失ったものもあるけれど、それら言葉が他の言葉と出会うことで、意味をもって羽ばたいていくこともある。
言葉とは、何か流れているものに「杭を打つ」感覚に似ている。一旦、いまこの瞬間にあるものに形を与えていくようなもの。とするならば、私たちは自分との向き合いにおいて、そのプロセスにおいて、できる限り、言語化をしていく、という行為はとても大事なんじゃないか、と。
どんなものでもいい。意味がなくてもいい。身体が感じた感覚でもいい。ぼんやりと、雲を掴むような不明瞭で、曖昧なものでもいい。それがどうした?と自分でツッコミを入れたくなるような内容でもいい。ただ、そのプロセスに「杭を打つ」ことで、いずれ確かな形になるかも知れないし、そして、ならないかもしれない。けれど、いまという瞬間を刻むものに変わりはない。それは創造の第一歩、なのでは、と。
日々の生活のなかで湧き起こる事象、そしてそこで感じる感情・感覚。私たちは、それらに気づきをもち、意識的になることで初めて自分という存在の輪郭を知ることができます。日常は、社会は、世界は、私という存在を鏡のように見せてくれる場です。鏡という、ありがたいヒントを観察し、私という存在に潜む意識を知ること。無意識を意識化していくこと。書くという行為、表現するという行為は、私たちが意識的に生きることへの大きなサポートになると感じています。創造することで初めて触れる潜在意識の世界。ちょっとその先に起こる世界をみてみたいとワクワクし始めています。
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普段から自然としている私自身の言語化ワークを、ときには誰かにシェアしてみようかと思い、まずはQUANTAの会員制コミュニティ「holos.QUANTA」でお試しのワークを数回に渡って開催してみようと思います。無意識を意識化する言語化ワーク、ジャーナリング。書く瞑想のようなものです。人とやったことないから、うまくいくかわからないけれど、やりながらブラッシュアップできればいいかな、と。
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それとは別に、数週間前にとあるコミュニティ向けに気づきのシェア&瞑想ガイドをしてきたので、そのアーカイブ動画(1時間半もあって長尺ですが)も期間限定で「holos.QUANTA」内にて公開しています。