No.423 たおやかで強い「柳」に籠められた思い
隣の団地の一角に公園があります。幅15m×長さ30mほどの小さな児童公園で、ジャングルジム(1基)と滑り台(1台)とブランコ(2台)が設置されています。隣の団地には小学生が多く居て、休みの日には、子どもたちの元気に遊ぶ姿が見られます。
その児童公園のほぼ真ん中に大きな枝垂れ柳の木が立っています。公園の設置当初からここに植えられたものでしょう。数十年前は、新興住宅地だったのでしょう。子ども二人が手を伸ばして抱えるほどに幹が成長しており、高さも10mはあろうかと思われます。誰が?どんな理由で?
最近では、街路樹や公園の柳の木を見なくなったと言います。たぶん、柳は枝が垂れて交通の邪魔になったり、人や家に迷惑がられたり、台風で倒れたりする心配があるからでしょう。また、一年に何回か剪定しなければならないなどの手間もかかり、そんなことが原因で減ったのかも知れません。
唐代の詩人・張喬(生年・没年とも不詳)には「維揚(いよう)の故人に寄す」という送別の七言絶句があります。「故人」とは、「昔なじみ、旧友」の意味です。
寄維揚故人
離別河邊綰柳條 千山萬水玉人遙。
月明記得相尋處 城鎖東風十五橋。
維揚(いよう)の故人に寄す
離別河辺に 柳條(りゅうじょう)を綰(わが)ぬ
千山万水玉人遥かなり
月明らかにして 記得(きとく)す 相尋ぬる処
城は東風を鎖(とざ)す 十五橋
第一句(起句)の「綰柳條」には、
「古来より中国では、送別の際に楊柳の枝を取って輪をつくり、旅立つ友へ贈る習慣があった。楽府題に「折楊柳」あり。柳條は、柳の枝。綰は、細長いものを曲げて環にすること。音の環『カン』が、還『カン』に通ずる所から、帰る意有りともいう。」
という興味ある解説をしている研究家のページを見つけました。柳の枝を切り取って輪っかにして贈るのは、「再会」や「帰還」を祈り願う思いを伝えるということだそうです。とても美しくて、心惹かれる風習です。
茶道の家では、正月飾りに「綰柳」(わんりゅう)と言って柳の結び飾りをするのでしょうか。「行くものが帰ってくる」ように祈る意味から、「行く年くる年」の宜しきことを願い、新たな年が無事であるように祈るものとして飾り付けるのだそうです。茶の湯の道を開いた千利休が、先の張喬の漢詩に学び「友を送り出す設え」として取り入れたのが初めだということを知りました。
公園で遊んだ子供たちも、いつかは大きく成長し、やがて地元を離れ出て行く時が来ます。その折に慣れ親しんだあの公園の柳の枝で輪を作って友達や親子で贈り合い、旅立ちの祈りとすることも可能なのだと思ったら、なんだか、一層この公園の柳の存在が大きいものに思えて来ました。
「むっとして もどれば庭の 柳かな」
作者の大島寥太(1718年~1787年)は、江戸時代中期の俳人です。松尾芭蕉(1644年~1694年)を追慕するあまり、30代前半の時『奥の細道』を吟行するため奥羽行脚に旅立ったというほどの人物です。その彼が、外出先の仕事か何かで腹の立つことがあり、むっとした気持ちを胸に抱いて家に戻ると、庭の柳が風にしたがって揺れているのを見たのでしょう。そして、何事も「柳に風」と受け流して生きることも大事だと反省し、教わる気がしたというのです。
公園の柳の木は植えられたその年から、近所の子供たちの成長をつぶさに見守ってきたことでしょう。そして、仲良く遊ぶだけではなく、子ども同士の言い争いや、喧嘩や、大人たちの良からぬ井戸端会議まで聞かされて来たかもしれません。しかし、「柳」は「厭(や)な気」になることもなく、風の吹くままに右左に揺れ、大きな景色で、広い心で受け止め、泰然として生きてきたのでしょう。「我を観よ」とばかりに…。
公園の設計者は、そんな空想の翼を広げながら、柳の木を用意したのかも?
私はその柳の大木に「公園にいる寡黙な先生」の名を冠したいと思います。