No.213 おやつの思い出
末期の患者に安らぎを提供し、寄り添いながら看護するホスピス「ライオンの家」で、人々がリクエストする「おやつ」から、それぞれの人生のエピソードを描いていくというユニークな小川糸の小説『ライオンのおやつ』(主演は、朝ドラ『べっぴんさん』でも好演した土村芳)が、6月27日(日)よりNHKのBSプレミアムで始まりました。
ふと、数年前に読んだ、小川糸の『あつあつを召し上がれ』の中の一遍「いとしのハートコロリット」という話を思い出しました。小林という老婦人が、夫のショー造に語りかけるのですが、ショー造は既に認知症で、小林のことが誰だか分かりません。そればかりか、小林自身も認知症気味という「あるある予想」の設定です。ちなみに「ハートコロリット」とは「細かくした子牛肉を煮込んでホワイトソースと混ぜてからカリッと揚げた」ものらしく、「カニクリームコロッケ」ならぬ「子牛肉クリームコロッケ」か?
この話の創作契機について小説家自らが回想した話があります。いわく
「昨年バンクーバーへ旅行した時に、近くの港町で見かけたご夫婦の姿がヒントになっています。海沿いのレストランで、アジア系のお婆さんと白人のご主人が隣のテーブルに座っていらしたのですが、年老いたご主人はこの話と同じように会話もあまりできないご様子で…。」
小説のネタは、触手さえ伸ばせば、身近なところに存在しているようです。
その「いとしのハートコロリット」の中で、
「可哀想に、ヨチヨチとゼンマイで動くオモチャみたいにしか歩けなくなってしまって。(略)急いで行く所なんてありませんしね。」
と老婆小林の語った言葉が印象的でした。
若さにもの言わせて仕事に突っ走ってきたのでしょう。会社で地位を得て、部下を鼓舞し牽引しても来ました。いつしか、人生の夏が過ぎ、秋も過ぎて、今や、その冬景色に耐える自分たちがいる。戦後の社会を創り、わき目もふらずに駆け抜けてきた日本人が、ようやく人間らしさを取り戻せたのに、知らず知らずのうちに飼い太らせていた記憶の病。
急いで走り抜けた人生に、見落とした物は少なくないのではないでしょうか。世界を、季節を、身近な人の笑顔を…。ヨチヨチ歩くのは、そんな見落とした物を体が埋めようとする反作用のように私には思えます。幼き頃に回帰する体のメカニズムは、人間性を取り戻すためのささやかなリセットなのでしょうか?
特急から鈍行に乗り換えて、ゆっくり過ぎて行く車窓からの眼前の景色を楽しむ、そんな生き方にシフトできた幸せを感じています。ただ、一昨夜の夕食が何だったか、すでに思い出せなくなりつつある私です。
それでも、不思議なことに、子どもの頃に母の作ってくれたおやつの思い出は、今も色褪せません。それは、ドーナツです。シナモンやチョコレートや、様々にデコレーションされたりトッピングされたりした、今風の贅沢で甘いドーナツではありません。戦後の雑誌「暮らしの手帳」かなんかに載っていたのを、農家の母ちゃんが見よう見真似で作った素朴なドーナツでした。口の中に押し寄せた黒船来航!ド田舎のイガグリ頭の男の子の「何じゃ、こりゃー!」という驚きの表情と、身も心もとろけそうな口の中の甘美な洪水を想像して、お笑いください。
あなたの「おやつのリクエスト」は、何ですか?