私は何者か、56
行き違う。
私のテーブルを覆うのは桜蕊。
そっとしておいて。
何の約束もない私たちには、致命的なことかも知れなかった。
花や木々も、自然はみんな約束など交わすことなく、その営みを繰り返す。
ひとは約束を取り付けて、いそいそと服を脱いだり、抱き合ったり、責任を生み出して、皺を刻み、伸ばし、繕い、世情を信じて、老いてゆく。
それなら、何の約束もない私たちは、何のためにこうやって日々互いのことを思っているのか。
何がある?
何もない。
実にシンプル。
全く同じ思いなら、それも良い。
根のとこで違うなら、それもまた仕方ないこと。
どちらかが、我慢して譲る。
我慢している人は、我慢していない人がいることを知らず、我慢していない人は、相手が我慢しているなど露も思わず。
我慢していることが偉いわけではない。
一が全てなら、引き合い、押し合い、一にするしかない。
約束。
そう言われれば、何も言えない。
何の約束もなしに生きるとは、古木の如く、静かに強くあることだ。
約束もせず、何の勘定もせず、けれど、ときどきはその指に触れ、抱き、抱かれたいだけだ。
約束もせず、ひとり歩く。
そんなに、難しいことを望んでいるのだろうか。
まだ、答が出ない。だから、求めるのだ。
私は何者か。
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