深夜散歩のすヽめ
深夜、あてもなく散歩に出かける。毎回、違う目的地を見つける。よく川へ行く。あるいは、近くの公園。もちろん、これといった特徴が一つもない公園。少し前は新大阪駅へ。ついこの前は、大阪城へ。散歩というが、実は自転車で。深夜、活動を停止させた大阪の街を自転車で小粋に駆け抜ける。夜風を身体に当てて、ただ気の赴く方向や地点を定め、車輪を回す。ひんやりとした夜の風が、肌を撫でる。鼻歌を淀屋橋に置いて行く。
昼を襲う人混みが消失した深夜の自転車は、徒歩では決して得られない質量の風を感じながら、街を走り抜けることができる。世界は、陽光に照らされた昼間とまるで違う表情をしている。活動を止めた大阪のビジネス街を、個々の不自然な営みが控えめに飾る。まともな居酒屋は徐々に閉店を掲げていき、ロクでもないチェーン安居酒屋だけが生存する。それでも、深夜のロクでもない居酒屋の安酒はうまい。
煙草も、深夜は昼の7倍は美味しく感じる。消費ペースも、7倍くらい。よくない、よくない。決して健康ではないことは重々承知の上で、紫煙を空中にくぐらせる。すっかり短くなったセブンスターの先端を地面に押し付けて火を消し、次の一本に火を点ける。ジッポの「カチンッ」という響が、味だけでなく音の余韻も夜に残す。日中には存在しえない余韻。静けさの中にしか、静謐さは存在しない。静謐さの中にしか、趣は生まれ得ない。深夜だけが、小粋でありたい欲望を叶えてくれるんだ。
また夜は、目的がなくていい唯一の時間だ。朝は、1日を充実するためのルーティンや準備に忙殺される。時間にゆとりを感じられる「珈琲を淹れる」というようなもの、ゆとりによって1日の生産性を向上させる一貫にすぎない。証拠に、朝一で日本酒で飲もうものなら、ほとんど全員に否定されるだろう。別にいいじゃん、朝食に日本酒。
昼はなおのこと、大人は仕事をする時間だし、子どもは遊ぶ時間だ。学生は読んで字のごとく学校で生きる。昼はあらゆる時間帯の中でもっとも合目的的な時間だ。生産性に対する漸進的な上昇が求められるのが、昼。夕方や晩御飯の時間は、食事とテレビ視聴。風呂に入って歯を磨く必要がある。この辺は、言わずもがな。もっとも目的的な時間である9時から17時の前後は、電車が人だらけになるんだから、多分そうだろう。
しかし、深夜はどうだろう。深夜は、目的がない時間なのだ。言い方を帰ると、「目的がなくても許される唯一の時間帯」、ということだ。生産性が必要ない時間なのだ、と思う。夜明けからまた生産性へ命を使うために充電タイムとして、睡眠に当てられるのが一般的。しかし、睡眠という常識にさえ囚われないのであれば、深夜は突如、無目的な時間になる。無目的であるからこそ、夜は平坦だ。長く、まっすぐ、同質の暗闇が広がり続ける。平面的にも、立体的にも、時間的にも、同質な暗闇が存在する。夜明けの手前まで、暗黒であり続ける。
「終わらない」感覚を与える特殊な時間感覚こそが、深夜が持つ最大のメリットであり、同じくデメリットでもある。その特殊な時間感覚こそが、夜を無目的たらしめる強烈な媚薬だ。頽廃的な欲望を、精神的欠落から引き摺り出すのが夜の魅力であり、恐怖。もっとみんな、深夜に浸ろう。夜風に身体を靡かせよう。日々の具体的な生活の中では思考が向くことがない領域へ、精神を漂わせることができる。深夜の出歩きは、物理的な散歩に終わらない。何より、「精神的な散歩」である。形而上的な営みが、そこにはある。
だから、深夜風に身体を靡かせる過ごし方は、やめられない。