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「持たない幸せ」は本当に幸せなんだろうか、みたいな雑文

 関西一円も梅雨に入ったそうだ。だいたいこれまでの人生は、テレビのニュースかテレビよりうるさい母親が梅雨入りを教えてくれていた。今は母親もいないし、テレビも見ない。天気予報がわからなくていつも困る。

「梅雨、入ったらしいですね」

 誰かは思い出せないが、そう伝えてくれた。ある部分が欠損したら、他の何かが補ってくれる。そういう意味では、うまく世界は回っているのかもしれないな。とにかく、いつかの誰かのセリフで梅雨の訪れがぼくにとって公式となった。

 「無くて困るもの」は普段ぼくらが想像するより少ない。ミニマリストだかなんだかが流行るもの頷ける。人間は、本当に欲しいものよりコマーシャルに欲しくさせられたものにお金と時間を使いすぎた。人生の過払い。アディーレ法律事務所で人生の過払いも扱ってくれないかな、なんて空想しながら、傘を開く。

 ミニマリストというのは、物の断捨離を趣味とする人のことを指す。どれだけ部屋の中を簡素にさせ、鞄を軽くさせるか、その結果として人生の精神的な荷物をどれだけ軽くできるかに挑戦する性向を持つ。「シンプル・イズ・ベスト」を掲げた食パン『超熟』みたいな人生。超熟は、バターで食べるくらいの簡素な味付けが一番うまい。口うるさい母親が言ってた。超熟にチョコを塗るのはアホのすることや、と。確かにバターで食べる超熟はおいしかった。親の言うことはだいたい当たっている。

 去年の三井住友カードのCMでも近い内容があったな。小栗旬の出ているやつ。

 小栗旬がジャンプをする。及第点の距離。旅人がポケットの中身を指摘し、出すように言う。小栗はしぶしぶポケットの中身の現金(紙幣数枚とジャラジャラとした小銭)を取り出して、再び飛ぶ。「さっきより遠くに飛べただろ?」と旅人。「そんな変わんないよ」と小栗。物がないだけじゃなくて、気にするものが少ない心の軽さが全力で飛ぶことをできさせている、と旅人。キャッシュレスのCM。

 こんな感じで、あらゆる場所で断捨離が叫ばれている。スティーブ・ジョブズは服を数パターンしか持たないのを真似する起業家界隈や、「フランス人は10着しか持たない」みたいな名前の本が店頭に並んだり、Twitterでもミニマリストがフォロワー稼ぎ、おまけに三井住友カードまで。ミニマリストがフォロワー稼いでどうすんだ。

 なんだか極端な世の中だなと悲しくなる。この前まで資本主義に則って「大量生産大量消費」を繰り返してきたのにも関わらず、早速「ミニマリスト」の風を吹かせる。「ミニマリスト」の風に乗っかってお金儲けをする人がいるんだから、なんだかな、と思う。

 悪いことはしていない。1ミリも。ただ、なんだかな、と思うだけだ。生きていると、なんだかな、と思うことばかりだ。世界はなんだかな、でできているのかもしれない。炭素となんだかな。元素記号表の最後にNを追加したいが、そこは確か窒素の席だったな。来世では、Nはなんだかなにしよう。ぼくと君だけの約束ね。

 ぼくの鞄は結構重い。家にはものは少ないタイプではある。活字とYoutubeの中毒を患っているので、パソコンと本があれば事足りる。その分、鞄はパソコンと本でパンパンに膨れ上がる。Kindleもあるが、紙の本も選択肢から外せない。電子も紙も違う良さがある。なので、文学的不倫をしています。でも本のほうだって、活字でも電子書籍でも出版するどっちつかずなやつだから、お互い様だよな。うんうん。

 ぼくの頭の中も、鞄と比例して重いように思う。「考えすぎだよ」なんて人には言われることばかりが頭を埋め尽くしている。牛丼屋で豚丼を食べていたら、なんだかそのすれ違いが心地悪くなって2口で店を出たこともある。よくわかんないけれど、しょうがない。「何を今考えていますか?」という質問が世界一苦手だ。「いろいろ」に決まっている。いや嘘をついた、梅干しの次くらいの苦手さ。

 「考えすぎ」なんて言われると、ほとんどの場合は心を閉ざす。「考えすぎ」なんてこの世の中に存在しないだろうと考えるのは考えすぎなんだろうか。繊細さ、鈍感さというのは人によって矛先が異なるんだろう。今の世の中では「考えすぎ」に分類されることに対して繊細な感覚を持ち合わせてしまったのだからしょうがない。ん?考えすぎ?なんだよ考えるって。

 結構しょうがないことだらけな世の中だな、せめてしょうがないねって言える人が増えればしょうがなさは減るのかな。なんか「考えすぎ」といい「しょうがない」といい「なんだかな」といい、同じ文字列が重なりすぎてよく意味がわからないな。ミニマリストの方々は、このごちゃごちゃした文章を見てどう思うんだろう。とても「1記事に1メッセージ」とは言えない、ラインティングの原則を無視したぼくの文章を。それとも、そこまで複雑に考えないのだろうか。

 爪痕として、狼だぬきの考えを書こう。ぼくのこの雑文をここまで読んでくれた人にはわかるかもしれないが、ぼくの頭の中はかなりごちゃごちゃしている。ミニマリズムとは対極に位置するだろう。一つの文を作る間に、次の文章が無意識に組み立てられ、一文を終えるころには自然に次の文を書き出せる。文章を書く上では便利だ。長距離走のような書き方。長距離ランナーはいちいち、次の一歩を考えない。そういう雑文を書く上での特性は「考えすぎ」がゆえんだろう。善悪の判断とは別に、事実として。

 疲れてきたから、ミスチルを聞こう。1996年、97年は名曲が多い。BOLEROと深海ね。明日はそんな記事を書こうかなあ。絶望の渦中にあった桜井和寿の飽くなき探究的表現活動。葛藤と鬱憤と陰鬱の憤怒の創作活動。いいなあ、せめて夜だけはそうありたいな。夜は、肯定も否定もせずに公平に来るんだ。昼が怖くて、わかってきた。夜だけは公平。夜だけが信頼できる。さあ、今日も活動を停止させた淀屋橋を歩くか。アークロイヤルだけ持って。


追伸. なんだか、随筆の逆みたいな構になってしまった。

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