祇園四条を歩いていたら、「うまく歩けなく」なってしまった
「人生をまっすぐ歩けなくなったあなたへ」という題名を入力し、こっそりと消した。幾分直接的すぎるその表現は、ぼくとあなたの間に大きな隔たりをつくりそうだったからね。ぼくはあくまで、ぼくのために文章を書いているんだ。誰のためでもない、自分自身のために。このアカウントとその文章たちは、あなたとぼくの秘密でしかない。それ以上でも、以下でもないんだった。
今、京都に来ている。三条で見つけたスパニッシュ・バーに19時頃に入店し、90分でサングリア、赤白のワイン数種類などが飲み放題の悪魔的なプランに捕まってしまった。何が悪魔的かって、セルフで飲み物を注ぐところだ。ワインセラーに限界がない宅飲みだよ。
計ったかのようにしこたま酔って、半ば千鳥足で五条までお相手を送り届け、また千鳥足で祇園四条のホテルへチェックイン。焼酎ハイボールを片手にnoteを開く。父親が昔から、締めは焼酎ハイボールだった。父親はいつも泥酔で帰宅した挙句、焼酎ハイボールを開けて自らトドメをさしていた。今よりずっと若い時は理解できなかったけれど、年々似て来ている気がする。手元の焼酎ハイボールがその証拠だ。しかも、レモンだ。父親と同じだ。なんだか悔しくて、でも少し、ちょっと、嬉しい。
このまま父親の思い出話でも、と思ったがちがう、ちがう。京都の街並みを歩く中で気づいてしまった話をするんだった。千鳥足で京を歩く中での絶望を書くんだった。
ぼくは歩くのが下手だ。あるいは、下手になってしまったのだ。その事実に気づいた。アルコールのせいかな、と酔いを言い訳にすることも思いついたのだが、違う。明らかに歩くのが下手なのだ。説明はうまくできない。でも、「普通に歩く」ということがどういうことかわからない。どこかのタイミングでそうなったのかもしれないし、実はずっとそうだったのかもしれない。そういえば、足は短距離長距離ともに遅かった。歩くのが下手である人間が、その延長上にある走力が高いとは思えない。そうか、ぼくは、歩くのが、下手なのか。
確かに、梅田駅の阪急百貨店下ではいつどう歩いても人とぶつかる。必ず誰かの足を踏んで靴をずらしてしまったり、足を踏まれてしまったりする。人と二人で歩いているときには、隣を歩く人間の性別や好意に関係なく、繰り返しぶつかってしまう。何人かの異性には勘違いさせてしまったかもしれない。この場を持って謝るよ、とりわけ好意がなくてごめんね。たぶん、誰も悪くないさ。少なくとも、君とぼくは。
平均台は得意だったんだけどな、と思い出す。と言っても小学校低学年とか、はるか昔のことだから今とは関係ないかもしれない。単純に、身長も体重も軽かったから、体幹がそれほどなくても平均台程度で困らなかったのかもしれない。平均台という「縛り」があれば今でもある程度まっすぐ歩くことができるのかもしれない。わからない。「過去は変えられない、未来を変えろ」なんて言うが、大嘘だ。未来が変わると、その水紋は過去まで広がるのだ。過去は、変わる。積み重なる今と、迫りくる未来が絶えず過去の意味を、その色を滲ませる。
五条から北へ進み小さな通りに入った。まっすぐ歩いてみよう、と考えた。活動を終えかけた阪急京都線に沿った商店街、日中の人混みと車通りが嘘のようにしんとした祇園四条。昼の通行量に合わせた幅にゆとりのある道路をまっすぐ歩こうと、意気込む。スパニッシュバーでの酔いを一旦脇に置こうと、数秒息を止めて、吐く。卒業式の体育館に卒業生として入場するかのように、一歩を踏みしめて丁寧に歩く。
しかし、うまく歩けない。酔いを脇に置いているので、酔いのせいではないだろう。しかも、酔いによる大げさな左右への振れとは別の歩き難さだ。それは、もっと観測しづらく、小さな幅で、それでいて確実なズレ。一歩、また一歩と足を前に出すたびに、思い描いた位置に足の裏が着地しない違和感。意識とは別に、身体機能の不備を感じる。まるで、歩くために必要なネジが一つ取れてしまったかのように、ぎこちなさを纏った散歩だった。
できるならば、酔いのせいにしたかった。でも違う。酔った時の歩きづらさとは別のそれだった。道いっぱいを使って左右に不規則に揺れる千鳥足ではなく、もっと絶妙で微弱で、それでいて決定的なズレ。一歩一歩のすれ違いこそ小さいが、積み重なったときに莫大な逸脱になるような欠損。そういった下手さだ。
なぜだろう、そしていつからだろう、というような疑念が次々と湧き上がり、祇園四条を悠々と歩く軽快さを脳内から追い出していく。いつしか、ぼくは「歩き方」しか考えることができず、そのくせ不器用な「歩き方」は一向に治る気配も予兆もなくホテルに到着した。いびつな30分の散歩の気持ち悪さは、酒をちゃんぽんしてしまったかのように胃の底にへばりついた。小雨が降っていることに気づかなかった。いつのまに。なぜ。いつから。
梅雨のいじわるか気まぐれみたいな小雨は、その雨足を徐々に強くした。しかし、歩き方を忘れたショックと違和感と疑念をぐしゃぐしゃにして両手で抱えていたぼくはスムーズにホテルに入ることができなかった。なぜ。いつから。いつから、歩き方を忘れてしまったんだろう。いや、いつから、うまく歩けなくなってしまったのだろう。
今、少し落ち着いて文章を書く中では一つ思うことがある。それは、「あるいはうまい歩き方なんてなかったんじゃないか」という一つの仮説である。巷に溢れている「うまそうな歩き方」ではない、自分なりの「うまい歩き方」だ。もしくは、四半世紀生きた程度の人生経験で「うまい歩き方」が見つかるはずもないか、「うまい歩き方」なんてのは幻想で、個人的な幻想をぼんやりと形どり、それを具体的にしていく作業そのものが「歩く」ということなのではないか、という一つの仮説。
歩くことは、生きることと似ている。日常に溶け込んだ、「下位の」動作である。それ自体が文明と技術の発展(あるいは個人的な成長)の中で、「当たり前」とされてしまって、意識が再び向けられることがなくなってしまった所作だ。走るとか、食べるとか、働くとか、恋をするとか、そういう上位っぽい所作に埋め尽くされて顔が見えなくなってしまった一つの前提だ。
気がつけば、うまく歩けなくなっていた。そういえば、気がついたころにはうまく生きれなくなっていたような気がする。歩くことと、生きることの類似を認めるならば、必然なことなのかもしれない。癪だな。いやそうでもないか。わからない。
一つ、思い出したことがある。整体の仕事をしている方に、姿勢の歪みを指摘してもらったことだ。そして、努力で直せる部分が半分と、骨格自体のどうしようもない歪みがあることも半分あることを教えてもらった。左右の腕の関節が違う形をしている。そして、左右の足の長さ違うのだという。
だから、たぶん、おそらくなのだけれど、一般的な意味での「うまく歩く」ことは望み難いのだろう。ファッションショーでステージに身を繰り出し、先端で魅力的に半回転してまた戻っていくような、そういう歩き方。見るからに足が早そうな、健康的でエネルギッシュな歩き方。どんな歩き方の正解があるのかは知らないが、ぼくはこの曲がった体を使って自分なりの「うまり歩き方」を希求する他ないのかもしれない。ゆっくりと時間をつかって、「なるほど、おれはこういう歩き方をが合っているのか」と振り返られるような人生を歩む他、無いのかもしれない。
明日、もういちど祇園四条の街並みを歩いてみよう。うまく歩くことを意識せずに、自分自身にとって自然な歩き方を探求してみよう。そうした後で振り返る過去には、今までと違う色が塗られるかもしれない。今と未来によって、過去は変わるのだから。そんなことを考えながら、飲みきれない焼酎ハイボールを洗面所で流した。
追伸 こんな個人的な文章ばかりの中、少しずつフォロワーさんが増えてきました。本当にありがとうございます。自分のために書いているとはいえ、世界が肯定してくれる感じがするんです。救いだなあ。せめて、救いになる文章を書ければなんて思って、ハッとして、ぐしゃぐしゃにして捨てました。ぼくは、ぼくを救います。今後とも、よろしくお願いします。