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【食文化】醤油の話:歴史編(3)~醤油の誕生

今回も引き続き「醤油」の話です。

日本でも縄文時代から食されていた「魚醤うおびしお」。
これが、稲作伝来、仏教伝来を経て「穀醤こくびしお」として定着していきます。
この「穀醤こくびしお」は醤油と味噌の共通の先祖とされています。

第3回目の今回は
醤油の歴史(3)~醤油の誕生について、書いていきます。

第1回の記事はコチラ ▼▼▼

第2回の記事はコチラ ▼▼▼




1. 「醤油」の前に「味噌」の話


中国から伝わった「穀醤」は、日本では「ひしお」と呼ばれ、大変貴重な、上流階級の貴族だけが口にできる贅沢な食べ物でした。

穀醤こくびしお」は、大豆や小麦などの穀類を煮て、常温に戻し、塩漬けにして作ります。
この「穀醤こくびしお」を潰したものが、味噌の原型とも言われます。

ひしおが完成する前の食べ物(まだ豆の粒が残っている)であることから、ひしお未満という意味で「未醤みしょう」となり、そこから転じて「ミソ」と呼ばれるようになったとも伝えられています。

味噌の由来は、はっきりしていませんが、
朝鮮半島から伝わった「高麗醤こまびしお」が味噌の元祖だとする説もあります。
この「高麗醤こまびしお」は、大豆で作った醤。
大豆の原産地である満州地域で、国を興した「高句麗こうくり」にて最初に作られた、朝鮮族や満州族由来の発酵食品とされています。

7世紀の飛鳥時代に、朝鮮半島で新羅が百済を滅ぼした際、多くの百済人が日本に避難して来たのですが、その中に味噌作りの名人がたくさんいて、日本で味噌が作られるようになったのではないかとも言われています。


一方、8世紀の奈良時代に、仏教を広めるために来日した鑑真和尚が、砂糖などと共に、味噌の製法を伝えたという説もあります。


その後、平安時代に初めて「味噌」という文字が文献に現れます。
味噌は、使用する麹の種類によって、「米みそ」「麦みそ」「豆みそ」に分けられますが、平安時代には広く普及したそう。

当時、味噌は調味料ではなく、「おかず」として、そのまま食べられていたそうです。

鎌倉時代の「徒然草」によると、鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼が、味噌を肴に酒を酌み交わしたという記録も残されています。


この鎌倉時代には、中国から禅宗と共に「精進料理」が伝わり、寺院を中心に「味噌」を用いた食文化が展開していきました。
特に、
「粒みそ」をすりつぶした「すりみそ」が作られたことで、味噌をお湯で溶かして飲む「味噌汁」が誕生します。

鎌倉武士の食事の基本である、ご飯、味噌汁、おかず一品といった「一汁一菜」というスタイルは、この時に確立されます。

その後、庶民にも仏教が広がり、味噌やすり鉢が、庶民の生活にも浸透していきます。
農民たちは収穫した大豆を使って、自ら味噌を作り始めます。

こうして、醤油よりも先に「ひしお」は「味噌」として、私たちの生活に広く広まっていきました。

この味噌から派生した副産物が「醤油」となります。



2. 「醤油」の材料は


何となく、醤油が大豆で作られていることはわかりますが、
改めて材料を尋ねられると、あれ?と思います。

醤油は、以下の5つの材料で作られています。

①大豆
②小麦
③塩
④水
⑤麹

この中で最も重要なのが「麹」

魚は発酵しやすいので「魚醤」を作るのは比較的容易なのですが、大豆や小麦などの穀物は、なかなか簡単に発酵してくれません。
そこで「麹」を加えて、発酵の手助けをしてやる必要があります。

「麹」は、蒸した米に、麹の種となる「種麹」を蒔き、麹菌を繁殖させたものです。
この麹が、大豆や麦に含まれるタンパク質を分解したり、デンプンをブドウ糖に分解する酵素を生産することで、旨味やコク、風味を生み出します。

平安時代の末期から室町時代にかけて、
この「種麹」を専門に製造販売する、多くの種麹屋が誕生します。

種麹屋は、酒造りや味噌屋、醤油屋に種麹を供給することで、酒、味噌、醤油といった発酵食品の大量生産に一役買っています。

現在でも僅かながら、この種麹屋さんは残っています。

こうして、「麹」の力で長い年月をかけて発酵させてやることで、醤油は、芳醇で独特な旨味、風味を作り上げていくのです。


3. 室町時代の「醤油」


鎌倉時代、紀州で「金山寺味噌」を作る途中で、偶然出来上がった「醤油」ですが、広く普及したのは
室町時代以降でした。

室町になり、大豆の栽培が奨励され、大豆の生産量が増えると同時に、種麹屋が安定して麹を提供するようになると、多くの農民が自家製の味噌を作り始めます。
こうして、味噌は保存食として庶民にも普及していきます。

味噌の普及に続き、室町時代の末期には、調味料としての「醤油」が、関西を中心に生産されるようになっていきます。

「醤油発祥の地」とされる紀州湯浅で、主に自家用に作られる程度であった「醤油」ですが、織田信長が生まれた頃の天文4年(1535年)、湯浅の赤桐右馬太郎が醤油 100 石余を作って、大坂に送り、販売を依頼します。
(醤油樽にして1,000樽くらいでしょうか…?)

これが、「醤油」を製造し、販売した、最も古い記録ではないかとされます。

当初は反応があまり良くなかったそうですが、徐々に受け入れられ、それ以降、様々な醸造元が大坂に醤油を送り込むようになり、醤油が広く流通していきます。

当時の醤油は、味噌桶の下にわずかに溜まる「溜まり醤油」で、量が少なくとても貴重なものでした。

「醤油」という言葉が誕生したのも、
この室町時代。

文献や日記の中に「醤油」という文字が現れるようになっていきます。

「垂れみそ」「薄垂れ」など、製法を表すと思われる言葉から、「漿醤(シヤウユ)」「漿油」「シヤウユウ」など、状態を表す言葉まで、様々な表現で記されています。
永禄11年(1568年)、織田信長が京都に上洛した頃に、奈良の興福寺の僧侶達が身近な生活について書いた日記、『多聞院日記』の中にも「醤油」の記述が登場します。

それから30年後の慶長2年(1597年)、秀吉が亡くなる前年に書かれた当時の用語集『易林本節用集えきりんぼんせつようしゅう』の中に「醤油(シヤウユ)」が記載されていることから、ようやく液状調味料としての「醤油」の呼称が定着したと思われます。


また、室町時代は、武家の礼法が確立し、
日本料理の原型となる、食材や調味料、料理法が完成した時期でもありました。
京都五山の禅寺では割烹調理が発達し、「ひしお」を工夫した「垂れみそ」「薄垂うすたれ」など、醤油に近い調味料が使われています。
これが奥義秘伝として、平安時代から続く、日本料理の流派、四条家や大草家に伝えられていきます。

「醤油」が普及するのに伴い、魚の食べ方にも変化が訪れます。

それまでの魚の身を細く切って「酢」で食べる魚の食べ方(いわゆるなます)が、太く身を切る「刺身」に変化していきます。
醤油を使うことで、魚本来の味を楽しめるようになっていったのです。

以後、戦国時代を経て、安土桃山時代には、
商工業の発達に伴い、
金山寺味噌が誕生した紀州湯浅や播州竜野などで、醤油の醸造が盛んになり、醤油は、関西を中心に広く普及していったのです。



4. 江戸時代の「上方醤油」の発達


こうして室町時代の後期から、安土桃山時代の上方(関西)に、醤油の産地が形成されます。
堺、湯浅、龍野、小豆島などの産地は、醤油の量産化が進みます。

慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸に幕府を開くと、政治の中心都市として江戸には様々な人々が集まり、大きく発展していきます。

特に「参勤交代」によって、全国の大名を一年交代で国元と江戸に居住させ、妻子を江戸に集めたこの制度は、江戸を一大消費都市に成長させました。

当然、家臣の多くも江戸に集まり、農村からは職を求めて
農家の次男、三男が江戸に集まります。
18世紀には人口が100万人を超え、世界に誇る大都市となります。

この頃、経済・生産の中心は大坂であり、大量の物資が上方から江戸に「下る」、つまり運ばれていきます。
大量の物資の中で、反物や小間物、陶磁器、紙などは菱垣ひがき廻船で
酒や醤油、味噌、酢、油、鰹節、干物など食品は、樽廻船で運ばれます。

上方(関西)産の品は、品質がよく高級品であるとされ、江戸に下る極上の醤油や酒は、「下り醤油」「下り酒」と呼ばれました。

因みに、今でもよく使う「くだらない」という言葉の語源はここにあり、
品質の良くないものは、
上方から江戸に下らない=とるに足らないもの
という意味からきています。

また、江戸で「下り醤油」と呼ばれた上方産の醤油は、輸送費が掛かることから関東では非常に高価なものとなり、関東産のものより2倍近く価格が高かったといいます。

一方、江戸の周辺で作られる醤油は「地廻り醤油」と呼ばれ、「下り醤油」より、品質が劣るとされていました。


いよいよ、お馴染みの「醤油」が登場しましたね。

次回も引き続き、醤油の歴史から、醤油の秘密を解き明かしていきます。

今回も長くなり恐縮です。
m(_ _)m

それでは、また😉

(つづく)

(2023年9月22日投稿)


つづきはコチラ
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