禅の書「墨蹟」上手くない下手でもない新しい書(白隠とか)
前回、AIに「書道の面白い話を聞かせて」と聞いて、note記事のヒントをいただきました↓↓↓
一休さんは臨済宗の僧侶。彼らが書いた書を特に「禅林墨蹟(ぜんりんぼくせき)」と言います。
筆者は前からこの「墨蹟」という書がとても好み。前回の記事執筆に際して、墨蹟熱が湧いたのでヤフオク(1000円+送料でした)でこんな本を買ってしまいました。
今回は墨蹟の話をまとめてみたいと思います。
墨蹟とは
そもそも「墨蹟」とは、広義においては、紙や布に墨書された肉筆一般を意味する言葉。単純に、墨で書かれた”あと”なので、「書跡」「筆跡」「墨迹」「墨蹟」も同義です。
また一方で、狭義においては、禅宗のひとつである臨済宗を主とする禅宗僧侶の書を指します。これを「禅林墨跡(ぜんりんぼくせき)」と言いますが、それを略して「墨蹟(墨跡)」とも呼びます。(これは日本においてのみの習慣。→後述)
今回扱いたいのは、狭義の方「禅林墨蹟」「墨蹟」です。つまり砕けて言えば、お坊さんの書。
禅の書「墨蹟」と言えば、白隠
臨済宗の有名な僧侶には、
宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう1283-1338年)
一休宗純(いっきゅうそうじゅん1394−1481年)
沢庵宗彭(たくあんそうほう1573-1646年)
らがいて、彼らも書を能くしました。
でもやっぱり現代において墨蹟と言ったら「白隠(はくいん)」のように思います。
冒頭の『墨美』も白隠特集です。
「達磨」(中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧)を描いた下のような書画は、なんとなく目にしたことがある人も多いのではないでしょうか。
日本独自の墨蹟の特徴
前述のとおり、狭義の「墨蹟」の意味は禅宗の僧侶の書。さらに言えば、江戸時代初期に流行ったかなりの太線で書かれた「一行書」からの、衒いのない朴訥とした書を指すような向きがあります。
その特徴は、
・とにかく線が太い
・太い細いの差があまりなく、太い
・字間隔も狭い(あるいはくっついている)ものが多い
・中国古来の筆法から離れて奔放
・迫力がある
・迷いがない、まじりっけがない雰囲気
・所謂“上手い”という感じではない
禅宗では権威と伝統を認めないため、書聖・王羲之をはじめとする伝統書を否定、それゆえにそれまでの書風とは異なるものが生まれました。
白隠は特に、戦後の前衛書にもつながる起点と言われるほど、現代書として人気があります。墨蹟が現代でも広く知られるようになったのは、主に白隠の書によるところが大きいのではないでしょうか。
しかし一方、本家中国では、伝統を重んじる傾向が日本よりも高く、墨蹟全般は異端なものとして受け入れられていないのだとか。
白隠の書
さて、最後に、今回手に入れた『墨美』の白隠特集から、筆者が好きな書をご紹介して締めたいと思います。
筆写がこんなカビ臭い本のごん太の線を見てうっとりしていることは、だいぶ世間ずれしているとは自覚はしているつもりです。
それにしても、「書道の面白い話聞かせて」と何の気なしにAIに聞いたのを発端に、随分遠くまで来ました。AIに感謝。
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