「二年に一度の、」極私的記録と坂口恭平『その日暮らし』のこと
文:かえるはかえる
寝て起きても空腹感がない。前夜に鯨飲馬食した覚えもなく、目覚め自体もすっきりしたものであったので、なにかおかしい。変なものでも食べただろうか。ダイエットの名目で有料プランに登録したものの、ただ記録するだけでカロリー制限も栄養調整もしない、形骸化してしまった食事管理アプリを見返しても、特に原因になりそうな食事は摂っていなかった。はて、どうしたものか。
とりあえず朝食は抜いて、冷蔵庫にあったブリックパックの野菜ジュースを片手に家を出る。このジュースは前述のアプリに記録するとビタミン各種のグラフがパンパンになる。これが面白くて飲んでいるところがあるし、これのおかげでアプリをアンインストールせずに済んでいるともいえる。
午前をしっかり働いて過ごしても、なお胃の動きが感じられない。結局その日は昼も抜いて、夜に少しのおかずを食べるのみで一日を終えた。明らかな異常、しかし動くのに支障はなく、むしろピンピンしている。ふらついたりもしない。まったく食べられないわけではないけれど、食べてもあんまりおいしくない、楽しくない。これはなんだろう。
そのまま翌日昼まで過ごしてみて、はたと気づいた。これはフィジカルの問題ではない、メンタルの問題だ。目前の症状にとらわれてうっかり忘れていたが、過去にも似たような経験があった。前回はちょうど二年前、その前はコロナが流行り始めた頃だったから四年前ということになる。思い返してみると、それ以前もそれくらいのペースで同じような状態に陥ることがあった。二年に一度の、謎の不調。
それが名前のつく症状なのかわからない。そもそも「症状」といってしまっていいのかすらも。一時的な食欲不振、と片付けてしまうこともできるけれど、一日の楽しみの半分を食に捧げている身としてはおいそれとほうっておけない。ちなみにもう半分の楽しみは酒だが、こういう時は毎日鯨飲しているビールすらも身体が欲しない。アプリのカロリーゲージは摂るべき基準の半分を割っている。ちょうどいい断食、くらいで済めばいいものだが──。
こいつの発動条件はわかっている。抱えているタスクが多くいつもより強めに負荷がかかっていて、しかしそれが肉体の疲労に反映されていないとき。ストレスを生み出している脳と、その受け口となる胴や四肢との接続が摩耗してぷっつりと切れてしまっているような。実際のところはわからないがそんなイメージだ。疲労とともに、欲望も伝達しなくなってしまう。メンテナンスを怠っているといつかは壊れるという、簡単な話。
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さて、夜に飯も食えなければ酒も呑めないときたら、することがない。こういうときは本だ、本。読みさしでしばらく放置、もとい寝かせていた坂口恭平『その日暮らし』(palmbooks)をひらく。
坂口恭平は長らく躁鬱病を患っている。調子のいいときは溢れんばかりの創作力を発揮する彼も、落ち込んでいるときはアトリエから出られなくなってしまい、一秒ごとに自己否定の言葉が浮かんでしまうのだという。定期的に訪れる、どうしようもなく深くてくらい沼。期間や頻度は時期によって変化があれど、だいたいこれくらいで抜けられる、というのが経験則としてあって、しかし今回ばかりはどうなるかわからない。そんな苦悩が、本書のみならず彼の著作でたびたび書き残されている。
前触れなくやってきて、いつ抜け出せるか分からない沼。足を取られたら、しばらくは身動きが取れない不安定な土地。はっきりと診断が下されている彼の病気と今の自分の一時的な不調を同一視するのは適切でないと思うけれど、たまたまタイミングよく手に取った本書が紡ぐイメージと自分の困りごとがカチッと重ね合わさったような気がした。本質的なところは異なっていても、部分がリンクしてひとつの像を結ぶ。こじつけかもしれないけれど、本を読んでいるとそういう偶然に出くわすことがたまにある。
『その日暮らし』では文字通り、日々うつろっていく彼の暮らしが綴られる。日常というものは均質であるようでいて、一日一日が固有で再現不可能なものだ。変わらないのは時計の針が動くスピードだけで、そこで過ごす人間が感じる時の流れは都度変わる。彼の生活は、土をいじり、絵を描き、文章を書き、躁鬱に苦しみ、家族と過ごし、身体に触れ、思いつきで何かを始めたり、いのっちの電話に出たりする、その粒たちの総体でもってはじめて言い表せる。そのひとつひとつの粒を軽やかに、ときにどん底の苦しみのさなかで書きほぐしていくのが本書である。持ち前の「しなやかさ」と彼の抱える「寂しさ」が、水彩画と自筆の題字で装われた本としての佇まいからも感じられる。
そんな彼の生活のなかでもやはり、躁鬱と創作の関係についての記述が興味深い。なんでも自分の手で作ってしまう彼の創造力にはいつも驚かされるが、鬱に入り身動きのとれなくなったときにも、彼は絵を描く。元気なときとはまた別の理由、別の突き動かすものがあって、絵を描く。
とにかく、手を動かすこと。他の全部が動かなくても、絵だけは描くと決めて、ひたすら手を動かす。絵を完成させることではなく、手を動かすことそれ自体を目的として。ほうっておくと勝手に湧き出てくる悪い感情や言葉に、その隙を与えないために、ひたすら描く。そうやってひとつのことに打ち込んでいるうちに、坂口はあることに気づく。
彼の文章に触れたことがない人が読んだらぎょっとしてしまうかもしれない文章だが、本書をゆっくり咀嚼しながらこの箇所に出会うと、驚くほどすんなり受け入れることができる。自分のなかの変化をよく観察し、一般的な解釈からいったん離れてみること。そのまま肯定するわけではなく、捉え方を少しずらしてみて、その経過をまたしっかり観察すること。彼らしい思考プロセスが存分に滲んでいるセンテンスだ。
「社会的な活動」としての絵ではなく、ただ自分のためだけに手を動かした、その痕跡としての絵。創作というものはどうしても、社会との接続を要求される性質がある。結果としてそうなったとしても、絵を描いたり文章を書いたり曲を作ったりしているその時間はたしかに自分のものだと思えることは、ものを作るすべての人に対しても救いと言えるのではないだろうか。
西日本新聞での連載をまとめた本書の後半では、深い鬱状態に落ち込みながら綴られた文章が収録されている。文体からも、それまでの軽やかさとは異なり、一行ごと、いや一文字ごとに書いては立ち戻り、書いては立ち戻るその澱みが感じられる。
死にたさを抱えながらも、手を動かすことだけはやめまいとする、その切実さが、生々しいまでに読者を揺り動かす。その日暮らしの生活は、今もなお続いている。
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読み終えて本を置くと、とにかく動かねばという衝動に駆られた。なにか文章を書きたい。ああ、今のこの苦しみを文字に起こしてみよう。脳内に散らばっている言葉を整理するために、まずは少し散歩でもしてこようか。今は手ではなく、足をひたすら動かしたい気分だ。そう決めるとさっそく着替えて、イヤフォンをつけて夜の街に繰り出す。とりあえず駅に出て、歩いたことのない方向へ行ってみよう。動かせば動かしただけ、景色は変わるはずだ。明日は、カロリーのゲージをいっぱいに埋められるだろうか。
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