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生き方に正解なんてない=自由を感じる

私が考える「成長」とは、これまでの窮屈な生き方を手放し、心から自由に生きられるようになった状態のことを言います。

かつて私は、自分の感性に身を任せ、自由奔放に行動していた時期がありました。その頃の自分は、まるで背中に見えない羽根が生えていたかのように、自由に、軽やかに飛び回っていたんです。

とはいえ、心細さも確かにありました。周囲の「余計なお世話」に耳を傾け、気づけばその言葉に影響されてしまっていたのです。そのせいで、気づかぬうちに頭でっかちになってしまい、知識や理屈ばかりに囚われてしまいました。

その頃は、周りにも同じように頭でっかちな人々がいて、彼らと共感し合うことで安心感を覚えていました。でも今は、そんな人々が疎ましく感じます。なぜなら、頭に詰め込んだ大量の知識や情報はあまりにも重すぎるからです。

この重荷に気づき、それを一つずつ手放すことを決意した私は、無駄だと感じる知識や情報を、少しずつ捨てていったのです。すると、不思議なことに、急に自分が馬鹿になっていくような感覚に襲われました。次第に無知になっていく自分に抵抗感を覚え、長い間慣れ親しんだ「頭でっかち」な状態から抜け出すことがなかなかできませんでした。

それでも後戻りはできず、前に進むしかありませんでした。そしていつの間にか、「正解」を探すことを諦めるようになっていたのです。ついでに、結果にこだわることも捨て去りました。未来に訪れる「結果」には、もう興味が湧かなくなっていたのです。まるで体の中にあるスイッチがカチッと切り替わったかのようでした。

そうして、頭でっかちの呪縛から解放された今、改めて振り返ると、私はもともと「どうしてもなりたい自分」や「こうありたい」という具体的な目標など持っていなかったことに気づきました。だから、私にとって「頑張る」という言葉も、どうもしっくり来ないのです。頑張って成功したという過去の記憶が、まるで思い出せません。

むしろ、私が何かを上手くやり遂げたと感じる瞬間は、いつも自然体で頑張っていない時に訪れていました。たとえ頑張って達成したことがあったとしても、それが心からの喜びに繋がったことはありません。むしろ、何か大切なものを失ってしまったような、そんな気さえしました。

もちろん、人にはそれぞれのタイプがあり、その違いが方法や結果に大きく影響すると思っています。私は努力が嫌いなわけではなく、むしろ好きなことには全力で取り組みます。そこには自然と努力も生まれ、根性だってあります。でも、私のやり方はこうです —— 思えば成る。あとは、体当たりさえすれば何とかなる。それが私の生き方です。

今の私は、何者かになっているわけではありません。それを気の毒に思ってくれる人たちもいて、心配してくれることもあります。でも、私は幸運だと感じています。なぜなら、生き方に「正解」なんてものはないと心から思えることで、そこにこそ本当の自由を感じているからです。


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