最近気づきのない時間を流されるがままに過ごしているのではないかと思うことがあったので、備忘録として記録。 ぜひBGMに「サンサーラ」を流しながら読んでいただきたい。 きっかけは些細な事。 「ザ・ノンフィクション」を見ていた時にパートナーが主題歌を歌っている竹原ピストルのことを話題に出した。その時フッと頭の片隅に(あれ?この歌ってこの人の声だったかな~)という疑問でもないようなほんのちょっとの思いがあったのだが、私は目の前の事実だけを見ることに集中してその考えをそのまま忘
お母さんの朝は忙しい。 忙しいよなぁって思いながらも楽しい毎日。 どんな朝を過ごしているのか改めて振り返ってみることにする。 6:50 起床、息子(7歳)を起こす。パートナーは朝シャワーへ。 7:00 やっと起きてきた息子を着替えさせ、軽朝食を食べさせ始める。検温。私も着替えて洗濯機を回し始める。 パックでお味噌汁の出汁を取りながら、珈琲豆をマシンに入れて自動で挽きつつティファールでお湯を沸かし始める。その間にスチームアイロンの電源を入れて、なかなか食べ進まない
立春といえば、日本の暦「二十四節気」のひとつ。前回も書いたけど旧暦のお正月と言われていた日のこと。 以前、Twitterでその二十四節気を更に細かく分割した「七十二候」と俳句を紹介するという趣味の遊びをやっていた。 ちょうど緊急事態宣言が出る直前の春から始まったそれは、秋の訪れとともに飽きてしまって今も絶賛お休み中である。で、あったとするべきか。 たまたま昨日1年ぶりにnoteを再開したのもあって、久しぶりに歳時記を片手にこちらもnoteに書いていこうと思う。 第一候
今年の節分は100なんねんぶりに2月2日なのだそう。 もともと節分は読んで字のごとく、四季それぞれにあったものが旧暦の新年に当たる春にだけ残ったものだという話らしい。 立春の前に災厄をはらうという今日に残る「追儺」の儀式は、古く中国からの遣唐使によってもたらされたもので、その後今の時代のように巷に疫病が流行ったときに当時の天皇が行った儀式が節分の由来とされているよう。 今のように炒った豆を「鬼は外、福は内」と言いながら撒くようになったのは室町時代の初め頃からだとか。
この状況が最近ほとんどなかった。 というのも、私は離婚して息子と2人。 そして新しいパートナーを入れて3人で暮らしている。 新しいパートナーは至って真面目な?会社員で毎日仕事を頑張って疲れて帰ってくる。 息子は元気いっぱいな6歳で今年の4月から小学生だ。 私もパートナーもお酒が好きなので晩ご飯イコール晩酌となる。 息子も晩ご飯を食べてあーだこーだと喋り、最近ハマっているガンプラを振り回してパートナーにめちゃくちゃ絡む。 9時を過ぎ、息子を寝かせてから食器を片付けてリビ
2つ前の記事に「同じ幻想ならば良き思い出の印象を大切にしたい」というようなことを書いた。 ここで気をつけねばならないことに気づいたのでメモがわりに書いておく。 それは「過去の幻想」を現在に持ち越して、それにより「現実の人間に勝手に期待しない」ということである。 「過去の幻想の中の人間」は確かに実在するものである。 だから、今連絡をとっていない人もいれば今現在も引き続きご縁がある人もいるわけだ。 ここで気をつけたいのは、実在する人間ではあるけれど自分の頭の中の人間像という
去年の抱負は 「早口を治す」 であった。 治っていない。 そもそも、抱負とはなんなのだ。 「早口を治す」が抱負で本当に正しかったのか。 抱負の類語は 「野心」「願望」 だそうだ。 願望と言われれば、まぁ「早口を治す」も悪くないように思うが、野心かと問われればもう少し野心ぽいものを考えたいよなぁなどとまさに野心を抱いたりもする。 話をもどす。 抱負という言葉を調べると 「心の中に持っている計画・決意。」と書いてある。 「早口を治す」というのは計画ではないし、決意とい
出会いの印象と別れの印象。 人はどちらを重要視するのだろうか。 起こる出来事によるところが大きいのは仕方ないとして。 人には日々出会いがあり別れがある。 2人でひとつの物語が終わったとき、出会ったときの印象と別れたときの印象どちらを思い出すことが多いのかなどと思い巡らせる。 ✴︎✴︎✴︎ 前述した発端はこうだ。 以前かなり遠い昔にお付き合いしていた男性が「あいつは俺のことが今でも好きだろう」と話していたらしいのである。 十何年前の話をしているのだ…そんなわけ