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「ライクがほしい」 の前に、 欠けてはいけない考え
「もっとライクが欲しいな〜」
「こんなnoteを書いたら”ウケる”かな」
人の目に触れるものを公開する以上、そう考えるのは自然と思う。でも私の場合は、「ライクをもらう」ことが目的になって、書きたいことを書けなくなって迷子になる。
これまでいろんな文章上達の本、稼ぐ本、英語が話せるようになる本、自己啓発系の本を読んだけど、「これさえやればいい」みたいなことが多く書かれている。簡単、手っ取り早い、安心がウリ。冷凍食品のキャッチコピーみたいやな。
文章を書くようになって、悩んで、試行錯誤して、分かったこと。
「これさえやればいい」の前に、「好き」や「情熱」が欠けてはいけないのではないか?子供の頃は、それを最優先で行動していた気がするのに、大人は子供みたいに何かを好きになったらアカンのかな?違うよな。
好きな思い、情熱が抜けるから、物事に不満が生まれる。
誰かに認めてもらえないと腹立たしくなる。
実はこの事に気が付かせてくれたのは、『枕草子のたくらみ』という本だった。清少納言は今でいう”毒舌ブロガー/エッセイスト”というイメージだけど、この本の内容はもっと『枕草子』や清少納言について深堀りしている。この本が好き過ぎて、電子書籍と紙の本の両方を買った。
枕草子の原文と現代語訳の他に、清少納言の人柄、仕えた女主人の定子の家で起こった悲しい出来事などを物語のように伝えているのがおもしろい。
清少納言がなぜ枕草子を書いたのか?
なぜこの作品が1000年以上経った今も大事にされているのか?
『枕草子』に込められた清少納言の”たくらみ”とは?
読んでいくうちに分かったのは、清少納言は仕えている女主人の定子(ていし)様が大好きだったということ。今でいう”推し”について熱く語る感じ。
定子は清少納言よりも10歳くらい年下だけど、聡明で教養もあり、威張らず優しい人だったそう。ひとめ見て彼女を好きになった清少納言。
単に”推し”を語るのではなく、定子の輝かしい姿を残したかった。清少納言が彼女に仕えたころ、定子の家は栄華の絶頂だったけど、それは長く続かなかった。定子は親の死、兄の不正や政治に翻弄されて、一気に奈落の底に突き落とされる。
明るい話が多い『枕草子』だけど、実は枕草子は定子が一番辛い時期に描かれたものなんだとか。清少納言は、彼女を励まそうとした。定子の家族に不利なことは書かない。悲しい思い出は語らなくともみんな知っているから、それを思い出せるようなことはしない。
だから明るい話で定子様に笑ってもらおう。そんな思いが感じ取れる。毒舌でも人を傷つけない「あるある」部分を上手に表現している。
『枕草子のたくらみ』を書いた山本淳子さんの書き方も良くて、清少納言や定子の物語に涙してしまった。
ライクがほしい、誰かに称賛してほしい思いが、「好き」の思いに勝った時、『枕草子のたくらみ』を開くようにしている。清少納言は枕草子を「後世に残してやる!」と思って書いたのではなくて、好きな人が輝かしい思い出の中で生き続けられるように書いたのだと思う。
それが定子だけでなく、多くの人の心を動かして、結果的に教科書に載って、いろんな専門家の人たちによって分析されて、こうしていろんな解釈の本になっている。
いい作品を書いてライクやお金を稼ぐ、の前に大事なのは、自分の心を激しく揺さぶる「好き」とか「情熱」。
もしかしたらそれは、誰にも称賛されずに孤独を覚えるかもしれない。簡単で手っ取り早い文章を書く方が”ウケる”のかもしれない。でもそれって、中学生の頃にリーダー格の女の子に嫌われたくないから、自分は好きじゃないものを「好き」って言わないとアカン感覚と似てる。
あの時は自分が自分じゃない気がしてきたのに、文章でもそれを繰り返すのは嫌。
自分の意見が少数派でも、誰かひとりの心に届いたら書いて良かったと思えるような文章にしたい。