優しさを渡せる人と受け取る人
カナダのウィニペグは、一番寒い時で気温がマイナス30℃になる。その気候とは裏腹に人が温かい。心はいつもポカポカするから私はこの街が好き。
カナダで優しい人たちと接するようになってから、優しさを「渡せる人」と「受け取る人」についてよく考える。
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毎年10月の第2月曜日、カナダはサンクスギビング。私たち夫婦は、友人の両親の家に招待された。友人夫婦とその子供たち、友人の両親と私たちで食卓を囲む。
友人パパがじっくり焼いたビーフのブリスケットは、柔らかくてジューシーだった。友人ママはサラダとデザートを出してくれた。どれも美味しすぎて何日かホームステイしたいと思ったほど。
友人の子供たちは3歳と4歳だから、家の中は賑やかで笑いが絶えない。私はこの年代の子たちによく好かれる。子供と遊ぶのが好き、いや、遊んでもらってる。彼らには「ちょっと大きいお友達」みたいに思われてるかも。
カナダに来てからは旦那さん経由で、家族のように接してくれる人たちと出会った。温かい家族に憧れていたからその一員になれているのが嬉しい。人に優しさを渡すよりも、もらってばかりだな。
こんなにしてもらっていいのかな?
実の親に「生まれて来なかったら良かったのに」と言われ続けた私が、誰かから優しさを受け取る価値はあるのかな。
”You deserve it.”
”I love you.”
”You are part of our family.”
旦那さん含めいろんな人がそう言ってくれる。みんなの愛言葉のおかげで、過去の呪いの言葉が少しずつ上書きされているのを実感する。
誰かの優しさを受け取る側も、準備をしなきゃいけないと思った。受け取る側がいて初めて、渡す人は「渡した」ことになるのだから。
人の優しさを疑っていては、人の善意は有難迷惑になる。受け取る側は誰かの善意を素直にもらって、優しい言葉を信じる。
何かをしてもらったらすぐに、その人たちに返さないといけないとも思った。でも私に優しさをくれる人たちも、今までいろんな人に助けられたから、自分ができる範囲で別の誰かにしているんじゃないだろうか?
だとしたら、私も人から受け取った優しさを忘れずに自分の心にどんどん貯めて、自分ができる時に誰かに渡せたらいいのかもしれない。
優しさって、
知らない人でも困っている人がいたら声をかける
旦那さんや友達に精一杯の愛情と感謝を伝える
いいと思うことは言葉にしていく
など些細なことを継続していくことなのかも。優しさを安売りするようにただ渡す、のも違うんだろうな。
大切なのは見返りを求めずに「誰かにしてあげたい」、その気持ちで動くこと。
それは旦那さんから学んだ。彼は私にも人にも優しすぎる。いつか人のために命を落とさないか心配になる。
ある時、大道路の真ん中で立ち往生していた車椅子の人がいた。何とかしたいけどたくさんの車が往来する。私があたふたしている間に、旦那さんは往来する車を手で制しながら進んで行く。彼は自身の安全を保ちながら、車椅子の人のもとにたどり着き、歩道まで押して行った。私がそんなことすれば車に跳ね飛ばされて、私自身も助けが必要になるだろうな。
彼は自分の誕生日には、団体やシェルターに食べ物の寄付をする。ホームレスの人に声をかけられたら、お金か食べ物を渡して労いの言葉をかける。態度の悪いホームレスの人が声をかけて来ても、求めているものをしっかり聞いて、自分ができるかどうかを考えて行動する。
できないときは誰に対してもしっかり、”NO”と理由を言える人。
「俺、すごいだろ」も言わずに、歯磨きくらい当たり前に人助けをする。(本気で「すごいだろ」とか言うてきたら幻滅する)。
私は誰かに親切にしたい時、嫌がられたらどうしようかと考えて動けない。旦那さんはそんなことないのか聞いてみた。
頭では分かっているんだけど、やっぱりたまに躊躇してしまうんだよな。
私が見てきたカナダの人たちは、誰かに親切にするのは当たり前と考える人が多い気がする。
バスや電車では子連れのお母さんにも親切な人をよく見かける。席を譲らない?気がついていない人がいたら、優しく「ここは優先席よ」と諭す人がいる。諭された人は素直に謝り、席を譲る。
席を譲ってもらったお母さんが微笑んでお礼を言うと、子供も笑う。それを見た周りの人も笑顔になる。
そういうのを見てると、「してあげたい」気持ちを持って人に親切にするのは、相手と自分のためになると信じたくなる。私は旦那さんみたいに道路を突き進む勇気はないけど、自分ができる範囲で優しさを人に渡せるようにしたいな。
相手に渡した優しさをちゃんと受け取ってもらったり、自分が人から受け取ったりして、思いやりの連鎖が広がったら素敵。