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変わるnoteに憂える私:note歴7年

noteを続けて7年。最近のnoteについて、私が憂えていることを書きたい。あくまで私個人の感覚であり、「かもしれない」という話です。

私は最近、noteに少しフラストレーションを感じる。自分が目指している方向性とは少し異なるタイプの記事が増えているから。

たとえば、簡単に成果が得られる方法を謳う、必要以上な承認欲求を他者に求める、自己陶酔、根拠が不明確な自己啓発、お金儲けに関する内容が多くなった気がする(私が見ている範囲内)。

もちろん、どんな記事にもそれぞれの価値があるし、他の人にとっては素晴らしい内容かもしれない。上記にあげた記事は、過去の自分が書いていたから苦手ってだけ。

SNSやブログでは、手軽に読める記事がどうしても目立ちやすい。noteは誰でも有料記事を売ることができるし、その自由さがプラットフォームの魅力でもある。noteという会社が、利益を得るために商業的な要素を強めるのは理解できる。

そのためには、手軽に読める記事、すぐに読者に響く記事を取り上げるのは当然だと思う。

でも人の下心や欲が透けて見える時は、居心地が悪い。誰でも簡単にネットで発信、売買ができるから「何者」かになれると錯覚をする。私自身もその一人だ。「多様性」や「個性的」を求めながら、結局「みんな」と同じで安心しているのかもしれない。

私はもっと、独自の視点を持って考えさせられる記事が読みたい。それこそ、新聞のコラムや読者投稿のような文章だ。

自己陶酔、自己憐憫や主観が少なく、でもその人自身が素直に思ったことを書くような文章。私では考えつかない意見を持つ人の記事は、読んでいておもしろい。きっとそれが「個性」なんだと思う。

書き手になると、このような文章にたどり着くのは簡単ではないけれど、私が理想とする文章のあり方だ。もちろん、私が好きな文章を嫌う人もいると思う。それも、好みの問題だから仕方ない。

実際にnoteでは、自分の表現の場として愛用してきた。私にとって創作の場はもっと、純粋なものだった。

noteが掲げる「誰もが楽しんで創作を続けられる」というコンセプトも変わってきているような気がする。創作を続けるのは、「誰でも」できることではないように思う。

実際には、(noteに)選ばれた人や、みんなと同じようなスタイルを持つ人だけが続けやすい環境ではないか?そうじゃないとしても、そう勘繰る自分がいる。これは、自分の記事は注目されないから、ただの負け惜しみの意見だ。

noteの仕組みやコミュニティが大きく変わり、「創作」そのものに対する考え方が軽視されているように感じる。

私もnoteを通して多くのことを学び、書くことで成長してきた。広告も出ないし、全て無料で制限なく使えるのもありがたい。何より、本文を書く投稿ページがシンプルで使いやすい。「書く」ことに集中できる。いろんなコンテストに気軽に参加し、いろんな人との交流もあるから気に入っている。

長年noteを愛用してきたからこそ、批判的な意見が出てしまうのかもしれない。このままの方向性でnoteを使い続けるべきか、それとも新たな創作の場を探すべきか、今は模索中だ。

サポートありがとうございます。