無力の正体と私が学ぶ意味
ここ1ヶ月くらい、何度も「無力」な気持ちになる。よく見聞きする言葉だけど、辞書の意味と私の気持ちは少し違う。その正体は何だろうか。
私の「無力」の正体は、自分なんかいなくていい。小さな子供が拗ねているような感じ。
優秀な周りと比べてだが、私には知恵や学歴もない。誇れる実績や経験もない。大切な人に負担をかけさせているように思う。特技と言えば、どこででもすぐ寝られる、切り替えが早いことくらい。
私は、無力な気持ちになったら人や世の中のせいにする。自分以外のものに不満をぶつけると気分がいい。現状は良くならないとわかってるのに、人を妬んだり、見下したりするのも嫌気がさす。
これを打開したくて学んでいる。私は、自分の心と生活をより良くするための学びがしたい。無力な自分からベストになれなくても、Betterになりたい。
私の思う「Better」とは、言葉を丁寧に扱って、自分と手を繋げるようになること。今回の無力みたいに、ずっと見てみぬふりしていた濁った感情を掬い(救い)上げたい。
なぜ言葉を丁寧に扱うかと言うと、言葉は「自分」という人間を作ると思うからだ。どんな言葉を放つかによって、誰にどう向けるかによって、自分を取り巻く人、見た目、環境や生き方が変わる。悪口ばかり言う人は口がへの字に変形していくし、優しい言葉を使う人は目尻にキレイなシワが増えていく。
「自分なんかいなくていい」も、元を正せば、親に何度も言われてきたことだ。でもその親はもういない。なのに、今もその言葉を浴びせているのは、結局は誰かに承認欲求を満たしてほしいだけだ。自分の不十分を人に満たしてもらおうとする前に、ベターな自分になる努力をしろ。
それに、「自分なんかいなくていい」と暗示をかけるのが私なら、「自分はここにいてもいい」と決めるのも私。
闇雲に学べば何か変わる、と思っていたけど甘かった。自分のふがいなさ、ないもの、弱さや悔しさに直面しながら立ち止まって、そこから気づきを得ていくことでしか変わらない。学ぶ楽しさはほんのわずかで、大半は苦しいような気がする。
「Better」な自分になるには、「Worse」な自分も知らないといけない。
そして、心の声をしっかり掬い上げることを積み重ねていけば、私が私と手を繋いで、無力感とももう少しうまく付き合っていけると思う。