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【Step12】雪と花〜針ノ木岳

7月の富士山以来なにかとバタついてしまって山へ行くことが減ってしまっていた。一ヶ月強ぶりに友人達と出かけた登山の行き先は、長野県大町の針ノ木岳。紅葉にはまだ少し早いものの初秋の雰囲気を楽しみに訪れた。


針ノ木岳概要

【針ノ木岳について】

稜線上から見た針ノ木岳

  針ノ木岳の標高は2,821m。飛騨山脈の北東部、黒部川中流部の東側を北は白馬岳から南へ五竜岳、鹿島槍ヶ岳をなどを経て針ノ木峠へと連なる後立山連峰の南端に位置する山である。日本二百名山、日本百高山に数えられる名山で、特にピラミッド型の山容と針ノ木大雪渓は印象的だ。

【アクセス】

 扇沢駅より針ノ木登山口から登る。扇沢駅まではマイカーで行くことが出来る。ここは黒部ダムへバスでアクセスするための長野県側の起点でもあるため、駐車場やトイレなどの設備が整っていてとても便利だ。バスターミナルに隣接した有料駐車場の他、少し離れた所に市営の無料駐車場もある。以下、駐車場情報の詳細は大町市の観光協会HPが分かりやすい。

 混雑期には公共の交通機関でのアクセスが推奨されているそうだ。バスでのアクセスはJR信濃大町駅からアルピコ交通の路線バスに乗って所要40分ほどで金額は1,650円。以下アルピコ交通の詳細。

【山行計画/コース】

扇沢駅/登山口(1,423m)→大沢小屋(1,673m)→雪渓手前のお花畑(1,800m付近)→雪渓手前の渡渉ポイント/お地蔵さんに見える岩(1,815m付近)→針ノ木雪渓→高巻き•鎖場の分岐ポイント(2,008m付近)→ノド→針ノ木峠(2,536m)→針ノ木小屋→針ノ木岳(2,820m)

上記ルートを往復した。
《 距離 》11.9km
《  標高差  》のぼり1,538m くだり1,538m
《 時間 》10時間17分(休憩2時間)

 扇沢駅から進むとすぐに登山口に着き、山道と車道を行ったり来たりしながら山行が始まる。1時間ほどで大沢小屋に到着する。針ノ木雪渓の取付きまでは比較的緩やかな登りが続き、何度かの渡渉を経てから雪渓が始まるようだ。

 「ようだ。」と言ったのは、今回雪渓を歩いていないから。9月で既に雪渓は崩壊しており、僅かに雪渓よ残骸が見られた程度でとても歩けるものではなかった。針ノ木小屋のSNSの記録を見ると、どうやら2024年は8月9日に雪渓の通行止めをしたとの事。

 雪渓を通らない代わりに鎖場を使った高巻きルートを登る。この辺りから針ノ木峠へ向けて標高はグンと上がっていく頑張りどころとなる。ルート自体は針ノ木小屋の方達がかなり頻繁に手入れしてくれるようで、登りづらい箇所にも安全対策として鎖が張られたり、川の流れが急な箇所には橋が掛けられていて、安全意識がすごく高い。大きな雪渓の奥に稜線が見え、そこに十字の標識があることが確認できるところまで来るともうひと踏ん張りだ。

 針ノ木峠まで上がると、直ぐに針ノ木小屋となる。黒部湖を見下ろす絶好のロケーションの山小屋で、小屋泊もテント泊もどちらも良さそうだ。針ノ木峠の分岐を東に進めば蓮華岳、西へ進めば針ノ木岳山頂となる。蓮華岳はコマクサの群生地で有名で、7月中旬から8月中旬にかけて咲くそうだ。針ノ木岳へは稜線を上り下りし、群生する魅惑の木苺の間を抜けていく。針ノ木岳から先はスバリ岳、赤沢岳、鳴沢岳、種池山荘と続いて扇沢に下りる周回ルートがあり、これがいわゆる針ノ木サーキットと呼ばれる縦走路だ。今回は扇沢から針ノ木岳のピストンだったが、次は針ノ木サーキットや夏のコマクサを見に蓮華岳まで行くのも楽しみにしたい。

針ノ木岳の見どころ

 針ノ木岳は見どころの多い山である。今回全てを見ることは叶わなかったものの、①山頂からの眺望②豊かな高山植物③針ノ木大雪渓と、ざっくりと分けても少なくとも三つは見どころがあるようだ。

【①山頂からの眺望】

 針ノ木峠を経て針ノ木岳へ向かう稜線から山頂にかけては、後立山の山々を中心とした北アルプスの絶景が広がる。眼下には黒部湖、その向こうには立山連峰に劔岳。山の連なりの向こうには五竜岳、鹿島槍ヶ岳、白馬岳と後立山連峰が続き、方角を変えれば奥穂高岳や槍ヶ岳も見られるらしい。贅沢な眺望だ。

 「後立山連峰」という呼称は、立山連峰(雄山、大汝山、富士ノ折立)に双対する山々の総称だそうだ。元々は飛騨山脈と呼ばれる大きな塊が、造山過程で裂けた時に生まれた黒部川の流れによって侵食、分断されて黒部峡谷という深い谷を作った。この黒部峡谷を隔てて東西に分かれた山脈が、それぞれ立山連峰、後立山連峰と呼ばれるようになった。

【②豊かな高山植物】

 沢沿いに沢山の花が見られた。眺望は生憎のガス模様だったものの、足元に咲く色々な花は大いに針ノ木岳山行を楽しませてくれた。

ヤマハハコ
イワショウブ
アザミ
トリカブト
ミヤマアキノキリンソウ
ガマズミかな
ミヤマママコナ?
ミヤマコゴメグサ
ウメバチソウ
チングルマのワタスゲ
イワギキョウ
シラタマノキ
キイチゴ畑に囲まれて
オヤマリンドウの蕾

 高山植物とは、一般的には森林限界よりも標高の高い高山帯に生えている植物を指すそうだ。広義には高山帯だけでなく亜高山帯(亜高山帯針葉樹林)も含まれるそうだが、Wikipediaによると、以下のように定義されているらしい。

高山に生育するから高山植物と呼ぶわけではない。例えば、北海道の礼文島や利尻島では森林限界が低いため、北アルプスで標高2,500メートル付近に生育している高山植物を平地や海岸近くでも見ることができる。

より狭義には、高山帯に固有の植物を高山植物と言う。つまり低山帯や丘陵帯にも生えているが、適応の幅が広いので高山帯にも生えている植物は高山植物と呼ばない。ただし、実際には高山へ向かう間に見かける草花も、すべて高山植物と言ってしまう場合が多く、高山植物図鑑の表記でもよく見かける。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A4%8D%E7%89%A9

【③針ノ木大雪渓】

 白馬岳の白馬大雪渓劔岳の剱沢大雪渓、そして針ノ木岳の針ノ木大雪渓は合わせて日本の三大雪渓とされている。雪渓とは、夏の融雪期に溶け切らずに越年する氷雪の広がりのことを意味する。雪渓地帯は夏でも涼しく、季節外れの雪の上を歩けることが大変な人気で、夏に雪渓の残る山には多くの登山者が訪れる。

8月頭には通行止めになった。(奥が雪渓の残骸)

 それでも今年は雪溶けるのが早く、雪渓が崩壊してしまった事が登山者の界隈ではちょっとしたニュースになっていた。白馬大雪渓も危険ということで早々に猿倉からの雪渓歩きが禁止された。針ノ木大雪渓は針ノ木小屋のSNSによれば、8月上旬には通行止めとなった。近くで見ると雪渓の厚みに驚かされる。バカっと開いたクレバスに間違って落ちてしまったら大怪我では済まないなと思う。次来る時は雪渓がしっかり残っている時期でもいいな。

 ちなみに雪渓と氷河の違いはと言うと、ざっくりというと『雪から出来た氷の塊のうち、動くものが氷河。動かないものが雪渓。』と定義されるらしい。もう少し付け足すと、『動く』と言うのは『重力によって下方に流れる。』ことを意味していて氷河の『河』の字は、この氷の塊が重力によって下方に流れる様を表すのだそうだ。従って、雪渓と氷河では氷の厚みも異なる。雪渓は雪が固まっても数mなのに対して、氷河の厚みは20mを超える。劔岳の三の窓で発見された氷河は厚みが60m、長さは1kmに及ぶそうだ。

 60mもの氷の塊と聞くだけで驚くが、興味本位で世界の氷河を調べてみるとさらに驚かされた。世界最大の山岳氷河はヨーロッパアルプスのアレッチ氷河と言う氷河で、これがなんと全長23km厚さは最大900mと言うのだから世界は広い。

アレッチ氷河(スイス)※画像転載

針ノ木峠と佐々成政

 針ノ木峠といえば、佐々成政の『さらさら越え』は有名な話だ。戦国時代、厳冬期の北アルプスを越えて行ったという武将の伝説。当時越中(現在の富山県)を治めていた佐々成政の物語である。

【佐々成政の人物像】

 織田信長に仕えた佐々成政は、“黒母衣衆”と呼ばれる織田信長直属の精鋭部隊の筆頭として戦場で活躍したという。主君に忠実で実直、勇猛果敢な武将だったと伝えられていて、その実直さが伺えるエピソードが面白い。

 天正2年元旦。織田信長は功臣を集めた宴の席で「珍奇の肴」を披露しました。それは数年に渡って煮え湯を飲まされてきた朝倉義景・浅井久政・長政父子3人の首に薄濃(はくだみ)を施した盃でした。

 宴が終わって諸将は退出していきましたが、成政はその場に残り、信長に次のように述べたといいます。
「古書によれば、王者は四海をもって家となし、兆民をもって子となすとあります。誰か一人でもあなたに服しない者がありましたら、あなたの徳がいまだ至らないことを知るべきです。どうか、不善を反省し、今以上の徳を有してください。」
(「古書に云く王者四海を以て家となし億兆を子と為す、然り而して一夫服せざる者あれば徳化あまねく浴からざるを知るべし請う不善を省み以て徳誼を有せ」『後漢書』)

信長はそのとおりであると大いに喜び、成政を寝室へと引き入れ、政務を論じ合ったそうです。
勘気が強いと言われる信長に諫言すれば、下手をしたら成敗されかねません。それでも成政は主君が人の道を外すのを見過ごすことはできなかったのではないでしょうか。

https://narimasa.web.fc2.com/about.html

 また、領地を与えられた越中では治水事業に尽力したといわれる。常願寺川の氾濫による水害の対策として自ら指揮を取って長さ150m、幅140mの堤防を1年かけて作り上げたのは有名な話で、これは佐々堤と名付けられて現代にもその跡が残されている。

 一方で、織田信長に忠実であったが故に信長が本能寺の変で討たれた後に台頭してきた羽柴秀吉やその配下の前田利家との関係は上手くいかなかったようだ。
 
 本能寺の変後、織田家の跡目争いで対立した羽柴秀吉と柴田勝家のうち、佐々成政は柴田勝家に付くものの、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側が敗れると佐々成政は秀吉に降伏を余儀なくされる。

 その後織田家の跡目争いは織田信長の遺児である織田信雄と、信雄と手を組んだ徳川家康、それに対立する秀吉という構図になる。この織田・徳川連合軍と秀吉軍の戦いが小牧・長久手の戦いだ。この時に佐々成政は悩んだ末に織田・徳川方に付く。そもそもかつての主であった織田信長の主筋の織田家を蔑ろにする秀吉に対し反感を抱いていたことや、主君である信雄からの要請を断ることはできなかったためと考えられている。

 伝承に出てくる佐々成政のさらさら越えは、その小牧・長久手の戦いの中で起きた出来事であるそうだ。

【さらさら越え】

 まず冒頭に小牧・長久手の戦い当時に佐々成政が置かれた状況について簡単に説明をすると、佐々成政が統治していた越中(富山)を挟むように西に秀吉方に付いた前田利家、東に上杉景勝と両脇を敵に囲まれる非常に厳しい環境だった。どちらからの侵攻にも備えなければならない、そんな中で小牧・長久手の戦いは展開されていく。

 この戦の期間に、佐々成政は西の前田利家領に侵攻する。これが末森城の戦いと呼ばれる合戦だが、これを前田利家に撃退されてしまい、成政は旗色が悪くなる。
 一方で秀吉と信雄•家康の方はと言うと、なんと秀吉軍と家康軍が双方睨み合っている間に秀吉・信雄の間で和議が結ばれてしまう。これに伴って戦の大義を失った家康も兵を引いてしまった。

 これに焦ったのは佐々成政である。両脇を敵に固められた上に、秀吉軍を討つべく味方に付いたはずの信雄・家康軍も引っ込んでしまったとなると自分の国が危うい。そこで成政は浜松にいる家康と対応策を話し合うため、再起を促す進言をするべく厳寒の北アルプスを越えて会いに行くという決断をした。天正12(1584)年の暮れ、今で言う1月2日に立山連峰、後立山連峰を越えて行ったとされる。これがいわゆる『佐々成政のさらさら越え』の顛末だ。

【厳冬期の北アルプス越えは可能なのか?】

 この伝説の疑問点は、一つは『なぜ厳しい山を越えていかなければならなかったか。』もう一つは『本当に立山連峰、後立山連峰を越えたか。』 ということである。

 まずさらさら越えを敢行するに至った理由だが、この答えは先述した、成政が敵に囲まれていたという状況にある。浜松の家康の所まで行かなければならない。しかし、その間城を空けていることを敵に知られるわけにはいかない。成政には、前田氏にも上杉氏にも勘付かれること無く越中から信濃国(長野県、家康の領地)までの行軍を行う必要があった。それで選ばれた道が、常願寺川〜芦峅寺〜弥陀ヶ原〜松尾峠〜湯川谷〜ザラ峠〜五色ヶ原〜針ノ木峠〜大町へと下る山道だったのだ。

 もう一つ『本当に立山連峰、後立山連峰を越えたか。』という点においては答えが諸説あるようだ。

 一つ目は先述した通り、富山から立山連峰のザラ峠・針ノ木峠を越えて大町へ抜けたとみる「立山ルート説」。二つ目が富山から南下して飛騨(岐阜県)に入り、安房峠もしくは中尾峠を越えて深志(松本市)に出たとする「飛騨ルート説」。三つ目は、富山から日本海沿いを東へ進み、越後との国境を流れる境川(富山県朝日町)を上流へたどり、難所の親不知を避ける「上路越え」で根知(新潟県糸魚川市)に出て、千国街道を通り大町へ抜けたという「糸魚川ルート説」の三つがあるそうだ。

 この三つの選択肢のうちどれを成政が進んだかということは明らかにされておらず、今回の山行記録ではこれ以上は言及しないでおくが、うち一つの可能性がある針ノ木峠に訪れたことはロマン溢れる戦国時代の一端に触れられたようで嬉しい。

終わりに

 仕事の都合上、北アルプスを訪れられる機会は少なくこれまで何となく避けていた山域だったが、終わってみれば歴史的にも、また地形や植生的にも非常に豊かで面白いエリアだということが分かった。雪渓や立山の氷河、季節の花々、越中佐々成政の歴史と深掘りする余地はいくらでもある。また機会を作って訪れながら、引き続き好奇心に従って一つ一つ調べていきたいと思った。

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