書籍【民主主義とは何か】読了
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◎タイトル:民主主義とは何か
◎著者:宇野重規
◎出版社:講談社現代新書
「民主主義」の基本的な事項を、過不足なく一つ一つ書き記すことが目的とのこと。ものすごく勉強になった。
著者の主張については、はじめと終わりに記載があるが、中盤は基本的な民主主義の解説である。
それゆえに、歴史の教科書ではバラバラに取得していた知識が、一本の串で刺されたような感じ。
歴史の教科書では、必ずしも「民主主義」というテーマだけで一貫して解説してくれる訳ではなかったから、こうして民主主義をテーマとして、一連で眺めてみると、その歴史の見え方も違って見えるから不思議なものだ。
もちろんその背景には、経済的な営みだったり、王政の中での対立だったりも影響があったりする。
民主主義とは、多数決なのか?
少数派の意見は無視してよいのか?
本書を読んでその歴史を学び、考察を深めてみると、見える景色が変わってくる。
古代ギリシャ時代には、市民約6,000人が直接政治に参加していたとは恐れ入った。
6,000人というと、中規模スポーツアリーナくらいであるが、屋根も音響施設もない中で、市民が集まって議論することなど出来たのだろうか?
本当に不思議に感じるが、一方でこのエピソードだけで、市民の熱量を感じてしまう。
今でも形式は多少変化があるが、「何かを議論して、決めて、実行する」ことを日々同じように行っている。
それは数万人規模の会社という単位だったり、国家という数千万人とか、日本で言えば1億2,000万人が、この仕組みに従って動いている。
皆がそれを意識しているかは別として、これだけを考えてみても、改めてすごいことだと感じてしまうのだ。
本書ではルソーの社会契約論についても触れられているが、「人々(平民)が、社会と契約する」という考え方は、とても画期的なものだと思う。
当時はまだまだ王政の時代。
平民はその土地に縛られ、時の王様に翻弄される訳で、自分で何かに対してコミットメントしている訳ではない。
そもそもその土地に生まれたことが運命のようなもので、一生同じ仕事をやりながら、圧政に苦しみながら生きていくような暮らしが普通だったはずだ。
それがまだほんの数百年前の話だ。
実は近代の民主主義の歴史とは、極々最近の話なのだということに、改めて驚かされてしまう。
この時代に「社会と契約する」という発想は、相当に突飛だったと思う。
結局、王政の時代には、民主主義は身を潜めていたはずだ。
この社会契約論という考え方が徐々に世に染み出してきて、その後のフランス革命にもつながっていくというのは非常に面白い。
民主主義の歴史の転換点はここだったと言えるだろう。
当時生きていた人達には想像もつかないかもしれないが、現代から過去を振り返るとそう見える。
歴史を学ぶということは、その時代の景色を探ることでもあり、本当に不思議な感覚だ。
ほんの数百年間の歴史が現代に続く民主主義だとすれば、まだまだ完全な形とは言い難い。
最終形態がどういう形になっていくのかは分からないが、これからは技術の進化も民主主義に大きく影響を与えるだろう。
国民全多数決という投票形式も、今の技術では不可能ではない。
スマホでポチリで1票を投じることが可能だが、その1票は、投票所まで歩いて、用紙に手書きで投じた1票と、重みは異なるのだろうか?
国民全多数決がテクノロジーの力によって、手軽にできるようになったら、国民投票が乱発されてしまうのだろうか?
確かに、投票所に赴いて、賛成・反対を考えながら投票する方が、手軽にポチリより良い気がする。
選挙が完全オンラインで実施されるまでには、技術よりも乗り越えるべきハードルが高いため、今後実現までに何十年かかかるかもしれない。
それでももし、国民全員投票が実行されるとしたら、明らかに少数派の人たちから「本当に多数決だけで決めてよいのか?」という問題定義がされそうな気がする。
これだけ複雑な社会になっている時代に、正しい答えは出ないと思っていい。
多数派が必ずしも正解ではないし、最適解とも言えない。
トランプ大統領の誕生や、ブレグジットについても、必ずしも良い選択だったのだろうかと考えてしまう。
そんな中でも、世界は益々変化していく。
未来において、メタバースやバーチャル世界が当たり前になれば、その中で独立国家の建国を言い出す人も出てくるかもしれない。
賛同者を集めて「オレたちは○○国民だ」と宣言する人も出てきてもおかしくはない。
一種の新興宗教のようなものかもしれないが、例えリアル世界の国家とかけ離れていても、バーチャル世界はその人達にとっては生活の大半を過ごす、日常の世界である。
そうなったら、国家も法も民主主義もあったものではない。
簡単にそういう世界に移行することはないと思うが、全くあり得ないとも言えないのが、これからのテクノロジー社会だ。
一日の大半をバーチャル世界で過ごすことが当たり前となり、リアルとバーチャルの区別さえも付きづらい状態になったときに、民主主義は、社会はどうなってしまうのか。
古代ギリシャのアテナイで、市民6,000人が一同に会し、議論している様子を想像してみる。
それはそれで想像の世界であっても、どうも現実感がない。
フランス革命、アメリカ独立戦争が民主化のきっかけとなったが、今現在も民主国家は継続している。
一方で、王政で統治している国家も、今現在でも存在している。
色々と比較してみると、日本というのは本当に不思議な国だ。
なぜこんなにもスムーズに民主主義に移行できたのだろうか。
日本の民主主義の歴史は、本書内で少しだけ触れているが、おそらく書き出すとそれだけで紙幅を割いてしまうために、短い記載となっている。
機会があれば勉強したいものだが、そもそも「日本の民主主義の歴史」について、共有の土台となる枠組みがないのだという。
確かに。だから社会の教科書でも、曖昧な説明しかなかったのか。
フランス革命のように、民衆が政治の主導権を握るために立ち上がったという、分かりやすくエポックな出来事は起きていない。
日本は天皇が統治している国であるが、そんな天皇が民衆に対し政治権力を乱用して、圧政したという歴史はそういえば出てこない。
圧政されていれば、民衆側からクーデターが起きてもよさそうだが、それも起こっていない。
飢饉になった際に、米騒動や一揆などが起きているが、あくまでも現状の食料不足への不満を解消するためのものであって、自分たちの権利を獲得するためのものとは言い難い。
それは政治の主導者が将軍になったとしても同じである。
そもそも将軍が天皇を倒して、その地位を奪おうとは思わなかったし、民衆だって天皇も将軍も倒そうとは思わなかった。
そして明治維新を迎える訳であるが、ここでも民衆の力はほとんど出てこない。
大政奉還についても、天皇と少数の政治指導者の中でのことであるし、国民を巻き込んでという状態にはなっていない。
そう考えると、元号が明治時代になってからの「自由民権運動」(それこそ歴史の暗記項目だ)からが、実質的な民主化と言えるのかもしれない。
日本で考えれば、ほんの百数十年の歴史ということか。
こういう風に考えてみても「民主主義とは何か」は相当に深い。
やはり今の世界の状態を当たり前と思わない方がいい。
歴史があって、それぞれ理由があって今現在がある。
それらをきちんと学習することで、民主主義の課題も見えるし、未来にどうすべきかも見えてくる。
やはり学ぶことは大切である。
(2024/8/24土)