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書籍【教養として学んでおきたい哲学】読了
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◎タイトル:教養として学んでおきたい哲学
◎著者:岡本裕一朗
◎出版社:マイナビ新書
これからの時代、益々「考えること」が重要になってくる。「知を愛する」まさに「哲学」のことではないか。
フィロソフィー(Philosophy)とは、ギリシア語の「philosophia」であり、philo-「愛する」+ sophia「知識、知恵」から成り立っているとのこと。
「人間は考える葦である」とは、フランスの有名な哲学者であるパスカルの言葉だ。
今後のAI時代を考えると、この言葉の意味が益々重みを増してくると感じてしまう。
人間だからこそ、考えることができる。
機械は確かに計算しているかもしれないが、果たしてそれを「考えている」と言えるのか?
シンギュラリティは来るとか、来ないとか。
AIは考えることが出来るとか、出来ないとか。
様々な議論が交わされているが、間違いないのは、今後の未来は大きく変化していくということ。
その状況で、未来の人類に求められることは何だろうか。
もはやそれ自体が哲学的な問いである。
おそらく明確な答えは見つからないだろう。
だからこそ問い続けていく訳であり、まさにそれが「哲学」なのだろうと思う。
AIは加速度的に賢くなり、様々な答えを、我々には理解不能なアルゴリズムによって導き出していくだろう。
その答えがどういう計算によるかはブラックボックス化して見えないが、どうやら結果はそれなりに正しいらしいと判断して、人間はAIを使いこなしていく。
つまり、答えを出すのはAIに任せればいい。
そして、AIが出した答えを人間が判断すればいい。
そう。判断するのはあくまで人間なのだ。
人間でなくてはいけないのだ。
機械の言いなりになって生きていくのであれば、人間である意味がない。
その一方で、超絶賢くなり過ぎたAIの回答は、ほとんど間違いがない状態に近づき、ほぼ正確な正解を導いていくだろう。
いずれ全人類の知能を超えていくのだから、人間一人の考えよりも、AIの方が正しい答えを導き出すに違いない。
そんな状態なのに「判断するのは人間」というのが、成立するのだろうか?
建前として人間が判断すると決めたとしても、そこに何の意味があるのだろうか。
そして、人間の役割は「考えること」だと決めつけてよいのだろうか。
未来の社会を想像すると、ついついそんなことを考えてしまう。
しかしながら、敢えて思う。
「人間は、考えること、想像することを放棄してはいけない」
これは人間が人間で居続けるための、ささやかな抵抗なのかもしれない。
「考えること自体が尊い」
こう考えることは間違っているのだろうか。
なぜ、我々は今こそ哲学を学ぶのか。
本書内に記載があるが、哲学というのは「常識を疑う学問」であるのだという。
「哲学とは何か?」という問いに対して、明確な回答がないものが哲学であり、一つの概念でさえも改めて検討し、批判し、根拠づけることこそが、哲学なのだという。
つまり、我々は問い続ける。
考えることを放棄したらいけない。
考えなくても物理的に生きていける環境が整っている社会では、相当に意識しないと、益々考えなくなってしまうだろう。
これからは、人間にとって相当に厳しい時代に突入するようだ。
「常に考える」
本書内には過去の哲学者の解説もあるが、未来の哲学についても記載があるところが興味深い。
結局、考え方を学び、問い続けることが哲学と言えるのか。
改めて意識していきたいものである。
(2024/8/14水)