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書籍【メタバース進化論~仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界】読了

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◎タイトル:メタバース進化論~仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界
◎著者:バーチャル美少女ねむ
◎出版社:技術評論社


現時点のメタバースというバーチャル世界の話を、紙の書籍で説明する。ここに著者の強い思いを感じたのだ。
相当に大変な作業だっただろうと思う。
わざわざメタバースという世界を文字で説明するよりも、実際に体験させた方が早いのは当然だ。
しかし、体験するまでのハードルが非常に高いのがメタバースだ。
だからこそ、アーリーアダプターの著者が率先して、書籍という形態で導いてくれる訳である。
これは非常に意味がある行為ではないだろうか。
私自身はVRゴーグルを所有していないが、会社などにあるもので試したことはある。
当時はまだまだ日常遣いは厳しいと感じたが、それでも「こういう世界がいつか必ず訪れるはずだ」ということを強く感じたのを覚えている。
世界のほとんどはいずれメタバースになる。
これは「なる・ならない」の話ではなく「いつ実現するか」というレベルの話だと思うのだ。
今すでに実践して、毎日数時間でもメタバース世界に住んでいるという筆者のような人を知れただけで感慨深い。
本書の最後で、マルチバースとBMI(ブレインマシンインターフェース)について触れていた。
バーチャル世界とリアル世界についても、今後は益々融合していく。
これも間違いないことだ。
例えばの話だが、生まれた時からスマホがある世代にとっては、私のような50代がスマホに接するのとは感覚が異なっていると思う。
同じように、生まれた時からバーチャル世界とリアル世界を行き来することが日常になっている世代が増えてきたら、それこそ社会システムは大きく変化せざるを得なくなると思うのだ。
私世代には理解できなくても、メタバースネイティブ世代にとっては、バーチャル世界の方が日常なのだ。
そして、リアル世界よりも各段に居心地が良い場所になっているのではないかと思う。
本書にも記載があるが、なりたい自分の姿で生活できることは、自我を保つためには非常に重要な要素だ。
さらに、経済活動だってほとんどがメタバース内で完結するはずだろう。
今すでに会社にほとんど出勤せずに、Zoom会議やPC内の作業をこなすだけで完結していることを考えると、全てがメタバースでも成立することは容易に想像がつく。
そもそも平面だけのZoom会議よりも、メタバース内で打合せをした方が、それこそノンバーバル(非言語)なコミュニケーションが可能な訳なので、ニュアンス含めて雰囲気は圧倒的に伝えやすい。
仕事以外の話では、現在でも「遠距離恋愛」というものが存在すると思うが、コロナ禍のお陰で毎日Zoomデートをしていた人も多いかもしれない。
もはや物理的距離が関係ない世界と言えるため、「遠距離恋愛」という言葉自体が使われなくなっていく可能性だってある。
当然Zoomでデートが成立しているのであれば、それがメタバース世界に代替されていくことで、コミュニケーションは益々リアルに近づいていく。
ほとんどの制約がなくデートが出来る訳なので、違和感を抱くことも少ないだろう。
物理的な距離は、本当に意味が無くなる日が近づいてくる。
ここまでくると、デートの相手が生身の人間のアバターなのか、VRキャラクターなのかも見分けがつかなくなるのではないだろうか。
メタバースでのデートが面倒になったら、コピーロボットを使うかの如くAIで動くVRキャラクターに任せて、自分は違うメタバースの土地で遊ぶケースだってあり得るだろう。
こう想像しただけでも、生活の大半をバーチャル世界で過ごすことになるのは間違いないのだ。
食事と風呂トイレだけはリアル世界に残るかもしれないが、ほぼすべてのことがメタバースに代替されても全く不思議ではない。
さらに言うと、生身の人間同士がBMIを通じて繋がってしまえば、益々リアルとバーチャルの区別はつかなくなるだろう。
むしろそんな境界線を探すことが無意味で、「自分にとっては、どんな世界であっても、すべてがリアル」という事に収斂されていくのではないだろうか。
もちろん50代のオジサンには、そんな世界は想像できるはずがない。
しかし、ほんの十数年後には、こんな世界が当たり前の世の中になってしまう。
人間の生き方自体、社会の仕組み自体が、大きく変化していくのは間違いない。
そんな時代になった時、「国」という概念はどうなってしまうのだろうか。
バーチャル世界での独自の文化は、今のリアル世界の国々の文化とどう異なっていくのだろうか。
「お金」の概念だって大きく変化するはずだ。
メタバース内で仕事が完結するのであれば、経済活動のほとんどは、間違いなくバーチャル中心に変わっていくだろう。
少なくともエンタメについては、ほぼ全てがバーチャル化されるはずなのだ。
リアル世界の制限のある表現よりも、表現に制限がないバーチャルの方がエンタメ世界は面白いはずだ。
触覚・感覚(幻肢に近い感覚のファントムセンス)も、BMIになれば脳を直接刺激して、勘違いをさせればよいのである。
ほぼ五感を再現できるようになるのも時間の問題だ。
こうなった時に、リアル世界との違いを見つけることはほぼ不可能となる。
教育もメタバースによって、大きく変化していくだろう。
リアルで授業を行う必要性は全く無くなる。
好きな学校の好きな授業をメタバース内で受講できるようになれば、世界中のほとんどのリアル学校が必要なくなるだろう。
代わりに、何歳になっても学ぶ必要がある訳だから、様々な人に教育機会が与えられることになる。
人間がメタバース世界で成長することが普通になった時に、アバターは完全に「自分」というアイデンティティを確立していく。
生身のリアルな自分よりも、アバターの方が自己同一性が高くなるはずなのだ。
それは、なりたい自分に簡単に変身できるから。
ファッションだっていつだって自分好みだ。
メタバース上では、性別だって関係なくなる。
自己同一性が高いアバターこそが真の自分自身であって、リアルの自分に違和感を持つ人が増えるのではないだろうか。
メタバース世界の自分はいつまでも歳をとらずに、好きな自分でいられる。
一方で、リアルの自分は日々老いていく。
これだけでも、リアル世界よりメタバース世界の方が居心地が良いのは当然だ。
こんな世界が本当にもうすぐ目の前に広がると思うと、焦りすら感じてしまう。
メタバース世界は無限に広がり、1人が複数アバターを使いこなすようになれば、メタバース内の人口は各段に増えていく。
AIのアバターが勝手に経済活動をしてくれて、お金を稼いでくれれば、それだけで生きていける。
その後リアル本人が亡くなっても、このコピーアバターはそのままメタバース内で経済活動をしながら生き続けてしまうのだろう。
そうなると、誰が本当に人間が操作したアバターで、誰がコピーアバターかの違いも分からなくなっていく。
こんなことを考えると、最早ついていけない訳だが、こんな世界が未来に訪れることはほぼ必須なのだ。
そして困ったことに、そんなに遠い未来の話ではないということだ。
本書内で著者が触れていたが、このメタバースによって、社会が「学び続けること」が前提となり、「成熟」とか「大人」という概念がなくなるだろうと説いている。
これは非常に面白い考察だ。
大人になるということは「大人の事情を理解しろ」とも言い換えられるが、新しい価値観が常にアップデートされるメタバース世界では、その考え方は老害でしかない。
新しい価値観を柔軟に学び続けて、自己に取り入れていくということは、永遠に未熟なままでいることが前提となる。
大人になってはいけないし、その世界の中で価値観をアップデートし続けていかなくてはいけない。
本書では、日本初の「かわいい文化=Kawaii Culture」はその体現ではないかと説いているが、あながち間違いとも言えないだろう。
この考え方は、次の世代、次の次の世代には当たり前のことになっていくはずだ。
世界が大きく変わっていくのだ。
まず、そういう未来が訪れるということを理解しなくてはいけないと思う。
(2024/2/10土)


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