【目印を見つけるノート】497. 日々暮らしているだけでも
九州も四国も中国もすごい雨になっていて、こちらもそろそろざっと来そうです。雨雲レーダーを見ると、日本にからみついたサンショウウオのようです。
どうか早くほどけてください。
もうどれぐらい前になるでしょうか。
島根の浜田に行くのに、出雲空港からずっと山道を抜けていったことがありました。道中、斐伊川と江の川を見たのですけれど、流れの荒々しい川だと思いました。案内してくださる方にずっと、「すごい川ですね」と言い続けていたように思います。語彙の乏しいこと。
ヤマタノオロチが暴れまわるというのは、本当にそのようだったのだろうと思えた光景でした。
どうか、あまりひどいようにしないでください。
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朝からばらを見ていました。「見る」というのはこの場合、「この先のためにどうしてあげたらいいかな」ということです。咲ききってきた花を切り、下葉、疲れた葉、去年の枝(古いベーサルシュート)の葉は多めに取り除きました。
次のピークは10月、そのための作業です。
新しい鉢のトモさんはなぜか葉の増え方がほどほどですので、様子を見ています。
ばらの育て方、というようなものをネットでたまに調べます。大筋はほぼ一緒なのですけれど、細かいところは結構違ったりします。土、肥料、栄養剤、殺虫剤などはそうですね。どの説を採用するか迷うこともありますが、ばらの種類や環境によってまた変わるでしょう。唯一の正解はないということがよく分かりました。
最近は、日々きちんと見ていることがいちばんなのかなと思います。
うちに来てくれたばらは、世話主がぐうたらにも関わらずよく育ってくれていると思います。ありがとう。
一緒に(ばらの)故郷の広島が無事なように祈ろうね。
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このような、日々生活する中で、日々続けることで分かっていくことというのがあります。
先般テレビで再放送(だったかな)していたターシャ・テューダーさんの番組を見ていたとき、対象を見て方法を変えられるやわらかさを感じました。生活していく知恵、自然とともに生きる方法をよくご存じだと思います。もちろん、そこには経験が大いに生きているでしょう。その上で方法を変えるということです。そのためには対象となる草木をはじめ、自然や家族や周りの人との関わりをただじっと見て、必要な手をかける繰り返しが必要なのだと思います。
「無為自然」というのは『老子』の言葉ですが、引用をしなくとも、ターシャさんはそのような生き方をされていると思います。
翻って自分は、お散歩する範囲の植物の名前も性質もろくに分からない。ああ、きれいだなあとか虫食いがあるなあとか、そのような程度です。
以前、蘇峰公園で木の名前がどうしても知りたいと思ったとき、たまたま植木屋さんが手入れに入っていて、聞きまくったことがありました。そして木の姿も図鑑で見るのと違う場合がたくさんあると気づきました。
鳥の名前が分からなくて、野鳥の会に聞いたこともありました。それも太っちゃって😅図鑑とは大違いでした。
いくつか話を出しましたが、日々、自分を取り巻くものをよく見て付き合い続けて、その上で自分がどう生きていくかというのが私にとっては大事だという趣旨になりますでしょうか。
限られた時間の中で。
ばらのお世話をしていて思ったことでした。
さて、
私は16~17世紀の科学者・人文主義者・哲学者(どれも関わりがあったりします)がなぜかとても好きですが、彼らの理論をよく承知しているかはさておいて、彼らの生きていた軌跡(人生)が好きです。エラスムスとトマス・モアとか、パスカルとホイヘンスとか交流の妙もあります。彼らの人生があって、彼らの理論はできたのだな、すごいなって感嘆したりします。
思い出すのは台風が来たときだけではないですよ。
今で言うと、どなたになるのでしょうか。
出会ってみたいですけれど。
そうですね、16世紀ならデューラーさんを遠くから見てみたいな。ワイルドな美男子かどうか……脱線しました。
デューラーさんは天才です。
デューラーの素描です。
『巨匠のデッサン』
これぐらい、よく物事をつかめるような人になれたらいいのですけれど。
それでは、お読みくださってありがとうございます。
尾方佐羽
追記
noteを見ていると、ロンドン・ハイドパークの『Speakers' Corner』を思い出します。王室批判と政権転覆(!)以外ならどのようなテーマでも、誰が演説してもいい場所。noteはModerateされたSpeakers' Cornerでしょうか。
私はそのようにとらえています。
BBCの英語教室?
でも示唆に富んでいると思いましたので。
『Speakers' Corner』