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『バグダッド・カフェ』から地の果てのイメージ
一度は行きたい場所を
つぶやきよりちょっと長めに。
たくさんありますけれどそのひとつ。
『バグダッド・カフェ』です。
同名の映画の舞台のカフェ。
アメリカのモハーヴェ砂漠の中に
ポツンとあるカフェ。↓予告編
海辺や高原のような心地よい場所ではなくて、砂漠です。
日差しがねえ、熱中症がねえ、と
言いたくなるでしょうけれど、
そこは都会の旅人にとって、未知の世界といえるでしょう。
もう5カ月以上、東京から出ていない、ほとんど家にいるからでしょうか。
とんでもないところに行きたくなるのです。
「地の果て」と言ったらいいのかな。
ああ、でも今に限ったことではないです。
⚫「地の果て」のイメージ
角幡唯介さんの『アグルーカの行方』(集英社)を読んだときに、そのなかの地図がスイッチになったと思われる夢を見ました。
有名な本ですね。北極点を目指して先人が進んだルートを踏破する記録です。たいへん優れた紀行(探検)だと思います。
私の夢はそれほど具体的ではなかったです。
地の果てにいる。
それだけ。
自分を取り巻いているあらゆるものがない。
ひとりで地の果てにいる。
その夢を見たときと同じような感覚を、寺山修司さんのいくつかの詩に見ました。何が、というのはうまく言えないのですけれど。
ーー
あなたに
書物のなかに海がある
心はいつも航海をゆるされる
書物のなかに草原がある
心はいつも旅情をたしかめる
書物のなかに町がある
心はいつも出会いを待っている
人生はしばしば
書物の外ですばらしいひびきを
たてて
くずれるだろう
だがもう一度
やり直すために
書物のなかの家路を帰る
書物は
家なき子の家
ーー
この詩は、「書物」を他のものにしても読めるのです。「夢」でも「想像」でもだいじょうぶ。そして、「自分」という言葉に置き換えると、ちょっと不思議な感覚になったりします。自分がちょっと揺らぐような。
寺山さんとそういうお話をしてみたいなあ。
地の果てという感覚について。
そして、寺山さんの最後の詩の、最後の一節。
ーー
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
『懐かしの我が家』より抜粋
(『寺山修司詩集』ハルキ文庫より引用)
ーー
物理的な地の果てというのは現実にはないのかもしれません。地球のほとんどの地域は地図やGPSでちゃんと位置が把握できます。個人の感覚的なものなのでしょう。
それでも、「地の果て」という場所があるものだと思っていたりするのです。
ただ、『バグダッド・カフェ』でも、『懐かしの我が家』でもそうなのですが、地の果ての向こうには帰る場所があるのです。出会った人との温かい交流、子供の頃の記憶のなかの懐かしい我が家。
それに出会うために、地の果てがあるのかもしれませんね。
たいへん恐縮ですが、『バグダッド・カフェ』で流れていた曲、ホリー・コールのバージョンの方が好きです。
『CALLING YOU』
♪あなたを呼んでいるの。
荒涼とした場所で誰かを呼んでいる。
とても必要な誰かを。
私の行きたい場所のひとつを書いてみました。
おがたさわ
(尾方佐羽)
追伸 タイトル写真は青森です。