私は自分が憧れた大人になれたのだろうか
昔、よく詩を書いた。それをよく褒められたり、表彰されたこともあった。
今読み返すと不思議な感じがするけれど、
当時書いた詩は高校生や中学生らしい水々しい感性が感じられる。
同じことに出会っても、当時とは、擬人法で例えるものが違う。
同じことを言いたくても、今の私が使うのは何やら大人びたカタカナの言葉だったりする。
同じことを伝えたくても、今の私が選ぶ言葉は論文に出てくるような漢字だったりする。
5年前の私が、今日の私と対話をしたら、「話すのも聞くのもつまらない相手」になっていないだろうか。
2014年、私が一人で書いていたブログをたまたま見返した。そこには、心を郵便受けのポストに例えている高校生いた。
彼女の詩はこう続く
「人の心はポストとよく似ています。
ポストは、時々人が中の郵便物をチェックしてあげなきゃいけない。
あの人の心も同じ。私の心も同じ。
私の心への郵便物が届くごとに、誰かにチェックしてもらいたい。
私の心へのお届けものが、多すぎると、精神的にまいっちゃうから。
ちょうど郵便物をため込みすぎたポストが、壊れてしまうように。
たまに見かけませんか?
郵便物がパンパンに詰まって、もう何も受け取れなくなったポスト。
たまに見かけませんか?
たくさん傷ついて、悩んで、人と出会うこと、話すことを恐れている人。
やっぱり、人の心はポストみたいに受け取れる分量は決まっているみたいです。
ポストの大きさは人それぞれ。
大きなポストを持っている人もいれば、
こまめにチェックしてあげないといけない小さなポストを持っている人もいる。
どのポストも素敵です。」
そうしてその詩はこう終わる。
「あなたの心はもう誰かにチェックしてもらって、 明日の郵便物は受け取れそうですか?」
なんと前向きで無邪気なんだと思った。今の私は、心をポストと例えることは出来ないし、そんな発想は思い浮かばないだろう。
おじさんやおばさんがよく「そんな発想はなかった」と口を揃えて言ったのを聞いて、疑問に思いながらも、つまらない人だと内心小馬鹿にしていたけれど、私もそうはなっていないだろうか。
なぜ人の心の発想が歳月とともに奪われてしまうのだろう。
発想が奪われ、経験になるのか?
経験したことがないから、発想が出来るのか?
一人問う
私は自分が憧れた大人になれたのだろうか