【読書】宮尾登美子『松風の家(上)』
「後之伴家」という架空の茶家を描いたフィクション。
…というテイで描かれた裏千家の物語だった。
利休さん以外の登場人物みんな、名前こそ違えど、ググると“らしき人”や“らしきモノ”のオンパレード。正直「ほぼ事実では?」という気もする。しかし、巻末の解説にもあったように、あくまで「後之伴家」の物語として描いているのだから、宮尾登美子さんが紡ぐ創作物として、詮索しすぎず楽しんだ。
江戸から明治への移行期。おそらく日本じゅうが初にして最大級にひっくり返ったその時期に、完全に文明開花の蚊帳の外へと追いやられてしまった茶道が、いかにして闘ってきたのか。その闘争の記録、いや物語だ。
あけすけに描かれる明治期の茶道の苦境。ともすれば下品にさえ見えかねない。現代でこれをやるなら文春砲しかないだろう。
そこをそうは描かず、すべての登場人物に対して、茶人としての矜持を保たせたまま品良く描ききった宮尾登美子さんの文章の格の高さよ。茶人に対する敬意のこもった文章が本当に素晴らしかった。おかげで読後、茶道に対する敬意や畏れはいっそう深まったし、想像していた以上にとんでもない世界であることも、よくよく思い知った。
「とんでもない」とは、途方もなく凄まじい…!という意味だ。
当時の苦労は、後之伴家の当人ならばぜったいに白日の下に晒したくはない恥部のはず。しかし、はたから見ればどんな時でも誇り高き茶人の姿は、恥ずかしさとは真逆。何をしてでも茶の道を守りきった家元の覚悟と態度は凄まじく、今、お茶を習い、茶道という大河のその一滴として流れる身としては、感謝の気持ちしかない。
そんな「とんでもなさ」のひとつが、今では想像がつかないくらいの、明治初期の貧しいお家元の暮らし。
上巻では、道具や家財を売りながらほぼ白湯状態の粥を食べ、繕って繕ってボロボロになった着物を羽織り、業躰たちがどんどん離れていく年月の中で、なんとか茶道の火を絶やさぬよう奮迅する日々が描かれる。
職業に貴賤はないかもしれないが「娼婦という奉仕も厭わない!」という一族のその思想たるや。
そんな貧しい日々。何をやっても、すべてこの言葉へと集約されていくのがまたとんでもない。
いや、そうかもしれんけど…。
しんどいもんはしんどいのよ…。
雪道を草履もナシに裸足で往復すんのは、無理やって…。
今日のお米を買うために宝物を売り尽くしてしまうんは、あかんって…。
と、読んでいるだけで弱音を吐きたくなる困窮っぷりなのに、ことば少なにじっと耐え忍ぶ後之伴家の皆さんのとんでもなさよ。
そして、もうひとつが、家元という存在の「とんでもなさ」。
ちょっと待ってくださいよー!
二十歳過ぎてお茶初めんのは手遅れなんかい!
去年お茶始めた私、何歳か言いましょかー!?
そんなぬるいツッコミも、業躰のトップ、仲の次のことばの前では吹き飛ばされてしまう。
おっしゃるとおりでございます…。
盾ついたわたしがわるうございました…。
上に立つ者の絶大なる力と、それに比例して肥大化せざるを得ない孤独と苦しみを想像させられる。
この小説の主人公は、後之伴家十三代の一人娘である由良子。彼女が結婚する際、母親からかけられることばもまたとんでもないのだ。
当時の世相や一般常識を鑑みると、個人の気持ちよりも「家」が最優先というのはある程度フツーのことなのかもしれない。
だが、現代の視点で読むと“「これからも自分の気持ちよりも家のことを先に考えておくれやす、なあ」とやさしくさと”す母親って、完全に毒親ですやん!怖いよ〜!
(厳密にいうと「結婚」でもなければ「実母」でもないという複雑さが同居しているのもまた恐怖)
宮尾登美子先生の筆による京ことばが美しく、一見スラスラと読み進められるが、よくよく考えると「これはホラー小説か?」と思うシーンは他にもたくさんある。
益子はのちに十四代となる長男、円諒斎の妻。背が高くて、動きがつねに緩慢、そしてメンタル弱め。そんな彼女には個人的になんだかシンパシーを感じるがw、いちばんの晴れ舞台において「大きい嫁さま」という形容…。
ルッキズムという言葉が登場するにもまだ100年以上かかる時代だから、だいたいにおいて女性に対する風当たりが強くて、読むだけで辛いシーンは多かった。
ただ、その益子の夫である十四代・円諒斎がすばらしい人なんだわ。父である十三代が早くに隠居したため、幼い頃から明治初期の苦労を一身に受け止めた、アントレプレナー精神を持つ茶人。
京都での暮らしがにっちもさっちも立ち行かなくなり、意を決して東京へ進出。やがて京都に戻ったときのことばが、今、茶道を歩む身としてはありがたく胸に響くのであります。
ありがとう、円諒斎さん。
あなたのおかげで私もお茶を“習いやすう”感じております。
円諒斎さんのようにおやさしい先生からゆっくりと導いていただいております。
と、感謝を伝えたくなるのです。
それと、この本で学んだことの一つが、言葉の節度。
こんだけつれづれなるままに駄文を書きつけておいてどの口が言うか!という話だが、円諒斎はことば選びも素晴らしいのだ。
ただ、それは円諒斎だけのものではなく、後之伴家自体の習わしなのだ。家元の厚みよ!
ところで、明治初期に苦労したのは茶の世界だけではなかったことを窺い知れる一文がある。
こうした描写や、日々のお稽古で触れるお道具や文脈を通じて、歴史の授業で習った「廃仏毀釈」「文明開化」といったことばを思い返すと、もっと他のやり方はなかったのかなとつい思ってしまうし、今の日本の姿に重なるものも感じる。
もちろん、そうした経緯があったからこそ、巡り巡って今の私がいるのだが、失ったものも大きいことに思いを馳せずにはいられない。
そうした壮大なストーリー展開もこの小説の魅力。大河ドラマを見ているかのような、何か人知を超えた大きな河の流れは読み応えがあって、ページを捲る手が止まらず、下巻へ突入。
よかったら下巻の感想へどうぞ。