見出し画像

【小説】後悔と悪魔 - n.【現代】

- 序 -

そのうち読み返して、自分に響いたらいいなって。

- 本篇 -

 よる、どうにも眠れないというときに、私はいつも後悔ということをする。
 歳を重ねれば重ねるほど後悔の厚みはましてゆく。生きてきた日の数だけ誤ったり苦しんだりするからだ。
 みんなは「後悔などするものではない」といって、過去の出来事を遠く置き去りにする。
 でも私にとって後悔は自然なことなのだ。
 かつて人は、未来を後ろ向きに考えてきた。すなわち、絶対的に不可知なものだ。一方過去は常に目に見えるもの。だから見えない未来を背中に感じながら常に前には過去があった。後ろ歩きをするように、私達は未来を受け入れ、過去を観察してきた。
 今は未来が先にあると思っている。過去は見るべきではないものとして、そちらには背中を向けてしまう。
 私に言わせてみれば、後悔は人としてのなにか大切なものだと思うのだ。
 さて、部屋にある置き時計は、午前何時かを指していて、短針と長針がもうすぐ重なろうとしていた。
 その日は、電気をけすのが怖かった。あんまり夜が深まって、何かが化けて出てくるのではないかと、不安になったのだ。
 だから私はベッドに座って少しだけぼんやりしていた。
 すると目の前に、悪魔が現れた。
「えっと……どちらさま?」私は悪魔に問いかけた。実際には悪魔だとわかる証拠はなかったのだけど、悪そうな風貌をしたそいつは、悪魔と呼ぶにふさわしいと思ったのだ。
「人間。貴様の後悔をくれ」
 悪魔はあまり会話が得意ではないようだった。
「こうかいっていうのは、なんのことかな」
「後悔は、昔の貴様が遭遇した失敗や苦しみだ」
「あなたに私の後悔をあげて、何があるの?」
「そうすればお前は後悔しなくてすむ。俺は、お前のかつての感情で生き長らえる」
「あなたは感情を食べて生きているの?」
「そうだ」
 悪魔は、人の想いを食べて過ごしているらしい。そんな初めて聞いたことさえ、嘘だとは思えなかった。なぜなら相手が悪魔だったからだ。
「例えばどんな後悔かな。今はすぐに思い出せないよ」
「では、そうだな。大切な友を失ったことはあるか?」
「うんあるよ。小学生の時の親友と、大喧嘩をして縁が切れちゃったこと」
「それは、いまでも思い出すか?」
「どうだろう。時々だよ。だって私はもう子供じゃないから」
「でも、心は痛むか?」
「そうだね。ミサちゃんが私の前からいなくなったときのことは、やっぱり胸が痛むかも」
「それが後悔だ。お前の心が動けばそこには感情がある。だがそれは決して新しくない、古びた感情。後悔の感情は、古くて美味しい」
 悪魔は笑っていた。食べていいという許可も出していないのに、私の後悔を食べるつもりなのだろうか。
「これはあげないよ。私の大切な思い出だ」
「後悔はなくしたほうがいいだろう」
「いいの。忘れたくないっていうときもあるんだよ。人間にはね」
「人間だって、そんなことを言い出すやつはいない」
「あなたが知らないだけ」
「俺はお前ら人間よりもよっぽど世界を知っている」
「人間の心は、世界よりも広いんだよ。それが世界に開かれていないだけ」
「わからない」
「わからなくていいよ。私がわかればそれでいい」
「じゃあ、食わせてくれないのか」
「私の大切な後悔だからね」
「なら、ほかにはないのか?」
 悪魔は残念そうにして質問してきた。腹でもすかせているのだろうか。
「そうだな……」
 食べさせて、記憶から消したい後悔の感情などあるのだろうか。私は後悔が好きだった。その時間だけは、自分のことを傷つけても、慰めても、何をしても誰にも批判されないから。過去の良い瞬間だけを大事にできるし、悪い瞬間は、散々文句が言える。
 でも過去の必ずどこかには、突然言葉にしがたい鋭い刃物がある。
 言葉を話そうと思えば大体は言葉になる。言葉を打とうと思えば大体は言葉になる。
 言葉は当たり前に私たちの周りにあって、言葉が言い表せないものはきっとそんなにない。
 でもその鋭いギラギラとした刃物は、なぜか言葉にできないものだった。
「失恋した時。おばあちゃんが死んじゃった時。高校の友達が自殺した時」
「それが後悔か」
「そうだね。全部そう。『まだなにかできたはず』って思うような瞬間。それが鋭く刺さってきて痛むんだ」
「なら、食ってもいいか」
「少しだけ考えさせて」
「なぜだ」
「痛いんだよ。痛すぎるんだよ。だから、忘れるにはまだ早い気がする」
「どういうことなんだ」悪魔が苛つきながら尋ねてくる。
「まだ浸っていたいんだ。後悔をするというのは、その人を、その人達を大事にしていたということだから。それをなくしてしまったら、この人たちが大切じゃなくなる」
「でも全員、お前の前には現れない」
「知ってるよ。もう二度と現れない。でも、だからこそ私はその人達の面影を、自分の後悔の中に見出すんだ」
「お前は変なやつだ。人間は大体、後悔のことを嫌っていて、自分がこれ以上後悔したくないと思って俺に助けを求めてくるんだ」
「悪いことじゃないよ。後悔は辛いもん。でもそれ以上に私は忘れることが辛い。皆、生きていた事は確かで、その瞬間だけは笑っていたから」
「それのどこが面白いんだ」
「面白くはないよ。私の支えになっていた大切な人がいなくなって、目を瞑っていて、あるいは吊っていたとき。私はいろんなことを思うんだ。それこそ『まだなにか話せたはず』とか『やり残したことがあったのに』とも思う。ことがことなら、『私にできることがもっとたくさんあったはずなのに』って思う」
「人間は、そういうものが辛いらしい」
「うん。とっても辛い。過ぎ去ったことはどうしようもないのに、私にとってはいつまでも生々しいんだ。きっと過去はずっと目に見えるものだから。未来と違って常にわかっているから」
「だが貴様はそれをなくしたくないのか?」
「……うん。それはね。後悔するようなことは皆、ものすごく私にとって大切なことで、今をどう生きるかを考えるための大事な思い出だから。それに、どうしたって後悔は直面するものだから。一時は心を守るために、後悔から目を背けることはできるかもしれないけど。目の前にあるのなら、いつかは目を開けて直面しなきゃいけないでしょ」
 誰かにいいたくて、でも恥ずかしくて、それからごちゃごちゃとして、悲しく、苦しく、虚しく、痛々しい思いと、なぜか晴れたような気持ち。後悔を取り巻く感情は、このように説明が難しい。
「だから、逃げたり少し悔やんだりしながら、ゆっくりと後悔を後悔じゃなくするのがいいと思うんだ。時間が経てばどうやったって、過去は自分から遠ざかっていく。その分、未来の時間が私の手元にやってくるから」
 悪魔は黙って私の話を聞いていた。
「だから、今は急いで後悔をなくしたいとは思わない。悲しむときに悲しんで、怒りたいときに怒る。それがいいかどうかは分からないけど、無理やり未来を見るために、体の向きを変えるほうがよっぽど大変だよ」
「そうか。お前がそういうなら好きにすればいい」
 悪魔はやれやれ、と言わんばかりに呆れた顔をしていた。
「だがお前。そこまで言うのなら、向き合うだけの力を持つことだな。お前が生きようという意思を持たなければ、押しつぶされてしまうだけだぞ」
「どういうこと?」
「今を、これからを生きるために、過去と向き合うのは結構。だがな、望んで痛みに飛び込もうというのも、それはただ自分を傷つけてごまかしているだけだ」
 悪魔は私の先生みたいに叱りつけてくる。
「いいか。風を感じろ。後悔は過去にとどまらない。後悔とは過去にあって、それから今に、そして未来に続く。それは、後悔を覚えている者によってだ」
「えっと……」
「だから後悔には風が吹く。お前はその風を感じながら今を生きている。後悔と向き合い、今と後のために考えるんだ」
 悪魔は、実際のところ悪魔だと分かったわけではない。もしかしたら、悪魔は先生なのかもしれない。
「未来を見ろ。別に恐れてもいい。過去を見るのが好きなら、見ればいい。だがな、つながっていることだけは忘れちゃいけない。過去と今と未来は、全て同じ道にある。どれか一つを切り離すことはできないから」
「先生?」
「お前は独りではない。お前に道はある。痛みを知る余裕も、そこから何かを得ようとする勇気も、多く持っている。だが、無理をしていいことはない」
 実のところ私は未来を見るのが怖かったのだ。なにかを失った状態で、私が直面できるものなどあるのか分からなかったのだ。
「夜が来れば朝が来る。そのかわりない事実と同じように、お前もまた沈み込んだ過去の先に未来があることを予感していくんだ」
 ハッと目が覚める。なぜだか息が詰まるように苦しかった。
 あまりいいことではない、そういう夢だった。後悔することが大切で、でもしすぎもよくないし、ただただ心が痛むというのもある。結局のところ、どういうことが大切なのかはわからない。
 でも、それら全部が後悔で、だからこそ言葉に出来ないのだ。
 あさ。決して昨日と何も変わっていないけれど、あさを迎えられたことが嬉しかった。
 実のところ、悪魔は先生であり私なのだ。きっとそれはいつまでも続いていくのだ。


- 評言 -

不思議めいた文章ですが、あなたに届くことを祈っています。説明しきっていないところは、あなたの生き方に沿って想像してほしいです。

サークル・オベリニカ|読後にスキを。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?