丁寧な暮らし、、、 って、いつ頃からだろ。 色んなトコで見かけたり、耳に入ってきたりするようになった。 《丁寧な暮らし》のイメージと言えば? 雑誌とか? 映像とか? エッセイとか? そうしたものからのヒントは 季節の移ろいを大切にして 色んなものを手作りしたり 食べ物や食べ方にこだわったり 物を長く大切に使ったり 生きる事に手間暇を惜しまない 暮らしや生き方をイメージする。 朝日を浴びてヨガとか 土鍋で炊いたお米でおにぎりとか アロマやキャンドルでホッと一息とか 豆から
若い方々に 歳を重ねる事に対してネガティブな印象を 与えたい訳では決してない。 だが、しかしである。 これは真実であり、 未来への明るい対策になればいいと思う。 「体重増加が止まらん」 「それな」 「もはや水で太るやん」 「おうおう」 「つーか、もはや自分に手をかけにゃフツーに生きれんな?」 「そのようね」 「めんどくせー」 先日の同じ歳の友人との会話である。 50代になり 水どころか 「息するだけで太るんじゃ、、、」 「増える増えると悩む思考に重さがあるのでは?」 と思
リビングの一角に古い縦長のガラスケースがある。 それは仏壇のような役割を担っていて 歴代の愛犬の御骨と写真、少しだけもらっておいた毛 破天荒の末、私が10代の時に旅立った父の写真 そして数年前に旅立った母の形見である指輪が しまってある。 父はアル中で 365日の360日程は酔ってベロベロ。 帰宅したらしたで母と派手な夫婦喧嘩をしては また飲みに行く。 仕事は殆どしていなかった。 まあ昭和と言う時代は おおらかっちゃあ、おおらかで どの酒屋も店先で角打ちが出来、 お金を持っ
今日は持病の受診日。 私の病気は今のところ コレと言った治療方法が無い 難病というカテゴリーに属するものなので 受診と言っても毎度毎度 血液検査をして 「ちょっといいね」 とか 「あまり良くないね」 とか 特定の血液成分の値とそれに関する医師の感想を 聞きに行くだけ。 まあ、もんのすごーく結果が悪ければ 入院したり、対症療法的に内服が始まったりもするのだけど、この病気と付き合って10数年 そうした事は1度きりで 後はずっと、検査結果と医師の感想で過ぎている。 医師と対面する時
ある朝。 鏡の前に80代くらいのおばあさんがいた。 「誰?このヒト」 そう。 他ならぬ私自身だった。 完全なる中年だと言うのに 自分に手をかけていない顔面に 秋のアレルギーが重なり 寝ている間に擦りあげたのであろう目元が 一旦腫れたあと虚しく萎みきって シワッシワのカッサカサになっていたのだった。 昔から美容カンケーには疎く、関心も持てなかった。 それでも若い頃 そして そろそろ気をつけた方がいいのでは? と思い始めた30代 いい加減目覚めなければ と臀を叩いた40代
同じものを見ても昨日と今日では違って見える。昨日と今日は同じじゃない。私も世界も。って言うか、私が。だから世界も違って見える。だからどんな風にも見る事が出来る。
歳を重ねたからこそ きちんとした下着をつけたい そんな素敵な考えを持ったおばさんになれれば良かったけれど 出来れば下着なんぞつけたくない! もういかなる場所もしめつけたくなどない! と考えるおばさんになってしまった。 冬は厚着だから ノーブラでも人様にご迷惑をかける事は そうそう無いのだが 夏はそうはいかない。 まあ、自分が気にしないなら 服の上からチ〇ビの存在が主張しようとも 良いのだろうけど 如何せん、私は気になる方のタイプな為 下着、、、と言うか チ〇ビ主張対策は
足るを知る。 勿論、大事だと思う。 で 無いを知る。 のもいいと思う。 【無い】を知る事からはじまるのは 自戒や 自責ではなくて 《誰かと繋がる歓び》 なんとなく 甘えが許されない と思い込んでいる世界から 飛び出す!誰かと 何かと 自分の持ってるもの 自分の持っていないものを 交換し合うのは それって なんて言うか いいやん? いいやん! 自分に無いものを 持つ人に学んだり、助けてもらって 私もまた 僅かばかりに持っているものを 誰かに気持ちよく渡して
ものすごーーーくやる気な日。 やる気が急降下する日。 やる気が目覚めることなく1日が終わる日。 生まれ持った気質なのか 育ちのせいなのか 分からないけれど 元々ジェットコースターなところはある気がする。 にしても異常。 更年期って、やっぱ、なんか、すごい。 何にも悲しい事なんかないのに うすら悲しいベールがかかって 物思いにふけったりなんかする。 かと思えば アレもコレもと作ったり、片付けたり、 鼻歌歌ったりして、、、 我ながらコワイ。 平均的にやってきた私の更年
小さな小さな違和感だったと思う。 自分なりの何か、、、 思いやりみたいな? 優しさみたいな? 愛って言うか、、、 いや、、、 もしかしたら 何かが変わってしまわないように 僅かでも波が立たないようにって言う 怖さからかもしれない。 とにかく 何かしらの理由を持ち出して 飲み込んだもの。 「これくらいなら平気」 って 何度か繰り返して 小さな痛みに慣れてしまった。 でも 慣れた ってだけで 痛みが無くなった訳じゃない。 違和感は何処までいっても違和感でしかないし 痛
焦らなくていい。 出来る時でいい。 頑張らなくていい。 いや、ホント、それ。 無理すれば それだけ 色んな支障が出たりして 余計に大変な事になったりする。 【急がば回れ】 でしょ。 ホント、そう。 そうなんだけど。 でもさ、 いつ出来るんだろう。 とも考える。 どうしても無理な時や事はやらないけど 出来るかもしれないとか やりたいとか そうしたものが少しでもくすぶるなら ちょっとだけでもやろうかな、なんて。 年齢で寿命は語れないけど 私の場合、 平均寿命を折
同棲時代に現オットと大げんかになった時に 「私の立場に立ってみてよ!」 と言ったら 「俺は◯ちゃんじゃないから、立てない」 と言われた事がある。 目から鱗である。 【えーーー。え?(心の声)】 その時、私は完全に覚醒しましたね。 共感とか理解を 当たり前に得られると思っていたら きっと ずっと キツイって事に。 【共感】 共感力って大事で 誰かの気持ちに寄り添うのって素晴らしい事。 それはそう。 出来ないより出来た方がいいように思う。 だけどさ 実際には そこに近
オットとは7年程の同棲を経て色々あって 結局結婚した。 妊娠適齢期と呼ばれる期間の終盤に 差し掛かっていたけれど 二人とも人間をつくっていく根性に自信がなかったり 経済力にも不安があったりとかとか 色んな言い訳みたいなものを集めてばかりで 「親になりたい!」 と考える機会を持たないまま 私が特発性血小板減少性紫斑病(ITP)と言う病気を 患ってしまった。 ITPは妊娠や出産が出来ない病気ではないけれど 妊娠が血小板減少に繋がる事や 妊娠出産に伴う出血が多くなる可能性がある事
首までお湯に使って ボーっと浴室の天井を見上げる。 白く柔らかなグラデーションを描きながら 線になったり 渦を巻いたりして立ち上がり やがては色を消し見えなくなっていく 湯気を ただ 見つめる。 目を閉じて ただ 居れば 私の 見える部分も 見えない部分も 全て 湯に流れ込み 湯気になって消えていくようで まるで 存在しないみたいだ。 ああ、もう少し 何者でも無い その「無」を 感じていよう。 扉を開けたら パンツと 服と 肩書きを着て また 存在するんだから。
毎日 色んなことを 考えたり 感じたりする。 そして すかさず 良いとか 悪いとか 考えや感じた事への評価が始まる。 ただ感じる とか ただ気付く とかの 何と難しい事よ。 自分なのに 自分の声がうまく聴き取れないなんて。 良いとか悪いとか ホントウハナイコト に揺れる 私の中の針。 今年は もう少し 自分の声を拾って ただ拾ってあげよう。 「あー、そうかー」 くらいの気楽さを味わってみよう。 そーゆーお年頃のせいで そうでなくても 色々と揺れたり、過敏になっ
自分の圏内ですら 「これってダイジョブ?」 って アレやコレや よめるはずもない空気を よんでる気になって アタフタするのに 今は 手のひらの上で 指を動かすだけで 沢山の価値観の中にダイブする事が出来て 沢山の「正解」を知る豊かさと同じだけ 苦しさみたいなものも感じる事が出来て あるはずもない正解に アタフタしてしまう。 あー! もう やめだやめだ‼︎ 何やってんだよ。 誰からも求められてもいないのに 色んな事考えて 窮屈に生きるのなんて もうやめよう。 こちとら