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絶望という名の愛

短文なんですけど。

5年くらい前に、ある方の取材をさせていただいたことがあって、その方が「バリキャリだった自分が、子供を産んで、育休をとって、その間にどんどん社会に置いていかれるのが怖かった。そして、楽しいはずの、幸せなはずの育児の時間を楽しめていない自分にも、苛立ちが募っていた。居場所がほしかった」とおっしゃっていたんです。

それがずーっと棘のように心の中に残っていて。自分が子供を産んだあと、自分もそんなふうに感じるのか自分の心情をウォッチし続けてきたんですよね。

今子供が2歳になったところなんですけど、当たり前ですが常にひとつの感情ということはなくて、時間経過でいろいろと変化してきたなあと思います。

●産後〜半年

もともと自分は鬱気質が強いほうなので、産後うつにはかなり警戒していたのですが、意外にもこれはまったくきませんでした。むしろ、この時期はかなり気持ち的にらくだった気がします。夫とはこれでもかというほどけんか続きで、その側面ではどっからどう見ても"気持ち的にらくな環境”ではなかったのですが、あくまで社会との隔絶を感じていたかという部分ではそうではなく。むしろ、会社員という「代替可能な存在」から、母という「代替不可能な存在」になったことの心地よさすら感じていたように思います。

●半年頃

これまた意外に感じたことなのですが、めちゃくちゃ仕事復帰欲がわいてきて、娘が生後9ヶ月の段階で復職しました(運良く保育園も途中入園できた)。でも、社会に置いていかれるのが怖かったというよりは、お金への欲が出たというのと(わたしはお金が大好きです)、わたしには「常に3つのメインタスクがある状態を好む性質(≒飽き性)」があって、「育児」だけでは早々にバランスがとれなくなったというのが大きいです。

●1年頃

ここでコロナです。多分ここらへんでもっと別の感情が芽生えかけていたんですけど、コロナのどさくさで紛れたんですよ。別の感情というのは、最近切に感じている「自由に動ける人への妬み」で、たとえば飲み会に参加できないとか、習い事もできないとか、趣味にあてる時間がないとか、そういう、「育児していたらまあ捨てざるをえないさまざまなもの」への禁断症状が出始めていたと思います。でもコロナで全員自由に動けなくなって、「みんな動けないなら、妬みもない」という心の狭い結論を導くに至りました。ここで気が紛れたのは、よかったのか悪かったのか……。

●1年半頃

1年4ヶ月頃に転職をして、仕事する環境がかなり変わりました。コロナ対策としてのリモートが推奨されていて、通勤時間がかからないぶん、フルタイム勤務にすることも叶いました。しかし、家から出ない分、本当に家で仕事→育児→仕事→育児→仕事→育児と作業のようにこなすような生活になり、これやっぱりバランスとれない、3つ目の要素が必要だわ……と気づきます。でも、自由時間って子供を寝かしたあとにしかないし、遅い時間に家でできるもの……うーん……となり、法律の勉強を始めたのがこの頃です。(勉強を趣味にするタイプなので深く気にしないでください。)今思うとこの法律の勉強というのも、社会への関心の表れな気がします。法律は社会のルールですし。

●2年頃(現在)

ウィズコロナとはよく言ったもので、少し前までコロナを脅威として見ていた人と、コロナなんてただの風邪だ!と言っている人とで二分されていましたが、今は「無関心」という人も結構多いのではないでしょうか。旅行に行く人は行くし、飲みに行く人は行くし。東京はこんな感じですけど、地方とか割と平和そうだし。そして鈍感だったわたしはついに気づく。自分が絶望の中にいることに。育児も仕事も勉強も楽しい。でもそのすべてがめちゃくちゃ孤独なのである。一人で育て、家で一人で仕事し、娘が寝たあとに一人で勉強して。いつ使うのかわからない法律の知識。誰に評価されているのかよくわからない仕事(主観を多分に含む)。2歳の娘と交わす、会話になってるようでなってない会話。謎に3匹もいる猫(とばっちり的に揶揄してすまぬ)。

向ける方向のない憤りが粉雪のように心の片隅に降り積もる。ちょっとした不満、それは社会に対してだったり人に対してだったりだけど、そういったものがやけに鋭く入り込んでくる。以前だったら苛立たなかったようなことに、苛立つ。自分はこんなにきつい条件(主観を多分に含む)で頑張ってるのに、お前はなんなの?と誰も彼もに言いたくなったりならなかったりする。

それで、ふと思った。これがかつてインタビューした彼女の言っていた「楽しいはずの、幸せなはずの育児の時間を楽しめていない自分」ではないか?「居場所がほしい」という感情ではないか?

そう思うと、必ず脳内で反証をし始める声がする。

いやいや、わたしは育児を楽しめているはずだ。そのはずだ。滅多に娘に声を荒げないし、お風呂をさぼったりすることもない。

いや、でもその思い込みが自分を無意識に追い詰めている説も検討すべきでは?「育児やめたーい!自由に遊びたーい!」と気軽に口に出しちゃうくらいの人のほうが、かえってロングブレスなのでは?

いや、でもどう客観視しても、自分は割と育児向きなほうな気が……

いやいや、育児向きと、育児好きはまた違うんじゃないかね。うーん。

でもよく考えたら、前はブログに自分の考えをまとめるのが好きだったのに、ここのところ、とんと書けていなかった。空き時間は全部勉強に割いてたし、"遊びの時間” が一切なかった。趣味だったアフタヌーンティーも、産後まったく行けていないし、毎月行っていた美容院だって3ヶ月に一回になったし、あんなに買っていた洋服も、今はユニクロオンラインで必要最小限そろえるだけになった。

書き出してみるとわたしはめちゃくちゃ我慢してるんだ。いろいろ恵まれている環境も多いからそこばかり意識がいっていたけど、わたしだってめっちゃいろいろ捨ててきたんだ。えらいじゃんか。えらいのに、自分でえらいって気づくこともできなかった。まあ大人だし、親になったんだし、人生は自己責任なんだから自分が我慢するのは当たり前って思ってた。……いや改めて書き出したらやっぱりそれくらいは当たり前だなあって思うけど、そこをあえて認知行動療法的に認識を変えたほうがよいのかもしれない。

それに、これは自覚が本当にないけれども仮説的に考えられるのが、もしかすると自分は完璧主義寄りなのかもしれない。そんなはずはないと思うけれども、そんなはずはないと思うこと自体が完璧主義的な発想の可能性も。改めて考えてみたら、法律の勉強を2020年7月から始めて、すでに7ヵ月になるが、このうち勉強をさぼった日数は5日に満たない……。勉強というとノイズになってしまうから、仮に「趣味のマラソン」とかに置き換えて考えて見ても、210日(7ヵ月)のうち205日走ってますってなったら、結構ストイックでは……?趣味ってそういうやり方するっけ?(する人もいるだろうけど)

育児も自分はうまいこと手を抜きながらやっているつもりでいるけど、見る人が見たら完璧主義に見えるのかもしれない。だから、もっと意識的に手を抜く努力をしたほうが健全なのかもしれない。でも手を抜く努力って、誰が幸せになれるんだろう。しかも仮説の上に仮説って重ねていいの?よくないよね?


なんにせよ、気づいたら自分も静かな絶望に入浴していたことは認めざるを得ないというのが今日の結論です。ここがどこなのかも、どんな薬効があるのかもわかりません。でもブログを書くことによって少しセルフセラピーすることができた気はしなくもないです。母強しというフレーズがあるけれど、強くなるってこういうことで合っているんですかね。

最後に、念のため注釈させてください。育児も仕事も勉強も、好きというのは紛れもない事実です。

よくわかんないけど頑張れ……と思った通りすがりのあなた。よかったらスキや投げ銭をお願いいたします。

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