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死にたかった日の事

どうも。にょです。

今から書く内容は明るい内容では決してありません。むしろタイトルの通りに死についてかきます。

嫌だと思う方は自衛お願いします。

ちょうど先日私は色々なことが重なり、自分で自分を保っていることができなくなりました。

どうすれば良いか分からなくなり、必死で自分で自分の頬を叩き、木の柱に頭を打ち付けていました。

そうなった経緯とこの事から得た知識をここでお話しさせてもらえたらなあと思っています。

まず、経緯から話しますね。

パニック障害やその他諸々の精神疾患を持っている私には遠出ができません。

なぜならばパニック障害とは、人の多い場所と閉鎖的な空間を酷く嫌う性質を持っているからです。

そのため遊園地やデパートはもちろん、電車やバスですら乗ることができません。

そんな状態に私はすごく劣等感を持っていました。

なんで私だけ。

いつもそう思いながら生きてきました。

周りの友達は卒業旅行などで遊園地や観光名所に行き中学校最後の思い出を華やかにしているというのに、私だけ一人自室でTwitterをいじっているという状況が嫌で嫌で仕方ありませんでした。

私も皆と一緒に遊びたい。一人の部屋で叫んだこともるくらいでした。また、遊びにいけない私は嫌われているのではないか。忘れられているのではないか。とわるい妄想ばかりしてしまいました。

何かをしようとしても集中すらできませんでした。

私は集中することすらも許されないのかとどんどん悲観的になっていったのを覚えています。

家族から大丈夫と言われても何がだいじょぶなのか分からなくなって怖くなった日もありました。

今思えば、その時私は莫大な恐怖を抱えて日々を過ごしていたんだと思います。

それを思うと発作が起きてしまったり、突然泣いてしまったりするようになっていきました。

私の心は早くこの病気を直して皆と一緒に遊び回りたいのに、そう思えば思うほど精神疾患は辛くなっていく一方でした。

そんな私に今までなかった二つの新しい症状が出始めました。

一つ目は喜怒哀楽が激しくなったことです。

なにもないときに号泣してしまったり、些細なことに必要以上に怒ってしまったり、ハイテンションになりすぎてお金の管理が甘くなったり、面白くもないところで突然笑いだしたり…

もとからそこまで泣かない私が理由もなく一日に一回は泣いてしまうようになりました。

私は正直驚いてばかりでなにもできませんでした。その時改めて自分がいかに精神疾患と向き合ってなかったかが理解できました。

二つ目は必要以上に人の目が気になったりすることです。

外に出ていないのに誰かに見られているような気がしたり、悪口を言われたりされてるような気がしました。

前までの私なら、人それぞれ相性があるのだから悪口など気にしないと割り切れていたのに対し、最近はどうしよう嫌われている私のせいだと怖じ気づいてしまっていました。

誰も私の事なんか悪く言っていないのに。

私は常に悪口を言われて見られているような感覚に囚われだんだんイライラするようになりました。

知り合いや物に当たってしまうことも増えるようになりました。

そして八つ当たりをする度に背負えないほどの罪悪感がやってきて私を押し潰すのです。

そしてあの夜がやって来ました。

その日私は些細なことで母にヤツ当たってしまい、大きな罪悪感を背負いながら自室に籠っていました。

発作が何度か起き息苦しくなっていたときに、人に当たってばかりで最低だよな。優しさの欠片もないよな。馬鹿だよな。そう思いました。

いや、そう聞こえたのかもしれません。

私はその声を消したくて必死で動き回りました。

大きな音をだしたり叫んでみたり、かきけせそうなことは全部と言ってもいいほど行いました。

それでも止まってくれなく、最終的にたどり着いたのが死んでしまったらどうだ。というとても単純で恐ろしい答えでした。

今の私ならその答えは違うと自分を止めることができます。でもその時は、その答えが正しいと思い込んでしまいました。

私自身が終わればもう誰にも迷惑はかけないし、あのうるさい声も、視線も発作も劣等感も全てなくなる。ハッピーエンドだと思い込みすぎてしまいました。

それから私は最初に書いた通りに自分の意思で自分を傷つけました。

死んでこの自己卑下な感情を捨ててしまおうと必死でした。

頭がフラフラしてもう無理だと思ったときに止めてくれたのは母でした。

母は私があんなに酷い八つ当たりをしたのにも関わらず私が私を傷つけるのを必死に止めてくれました。

母がいなかったら脳震盪で死んでいたかもしれません。

そして気づいたことがありました。

私にはまだすがれるものがある。

母もそうだし一定数の頼れる友達がいます。その人たちがいなくなっても私の大好きな文学は裏切らない。

すがれるものがあるならとことんすがって生きていこう。

そう思いました

今私が右側の頭にたんこぶが一つできているので済んでいるのは、両親にすがったからです。

すがることは、一見恥ずかしいことかもしれない。でも心を体を助ける救命行為になると私は学びました。

死にたかった日の事は一生忘れません。あんなに自分を痛め付けても痛くなかったのは生まれてはじめての事です。

それは私が心の底から疲れていて、誰の事も目に入っていなかったという現れだと思いました。

もうあんな日は二度と来てほしくない。

でも、すがれるものがあると気づけた貴重な経験だったことは確かなことです。

私は皆さんに言いたい。

すがれるものに頼らないと貴方はいづれ朽ち果ててしまう。すがれるものは必ずある。それが遠くか近くかは貴方にしかわからないけれど必ずあるからすがってほしい。

自分を傷つけたり他人を傷つけたりして心の体の傷を直そうとか、緩和させようとか思わないでほしい。

その行為は絶対に間違っているから。

以上。未熟者からのお願いでした。

これを読んだ皆さんがすがれるものをうまく見つけられることを祈って。

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