罰ゲームで飲まされてた日本酒。本当の美味しさに触れたら、造り手になっていた。
「日本という国名がついたお酒 “日本酒” 」
日本酒に関わる機会があり、出会ったこの言葉にハッとさせられた。
自分の国の名前が入っているのに、なんか嫌われてない?
お酒離れが進んでいるらしいが、日本の食文化にあうこのお酒を、もっと気軽に楽しめたら幸せな時間が増えるんじゃないかなと私は思う。伝統工芸品並に繊細に造られる日本酒、その日本酒業界に全くの未経験から24歳で参入した若者がいるという。
ブレイクダンスにはまっていた青年が、あるきっかけから日本酒に目覚め、突き進んでいくお話です。
24歳で酒蔵をM&Aした人とは一体どんな強者なんだろう?と佐渡にある天領盃酒造さんをお尋ねした。売店の横にある扉から、ひょっこり出迎えてくれたのは白いTシャツが似合う加登仙一さんだった。
簡単にできないからこそ、のめり込んでいく
やんちゃな少年時代を過ごしたという加登さん。小学2年から始めた硬式テニスを中学生の頃には週4でやるほどのテニス少年だった。一度ハマり出すと、とことんやり続ける性格はその頃からはじまっていた。
しかし、中学3年の時にテニス肘になりテニスを続けることが出来なくなる。高校に入ってからは特にやりたいこともなく、テニス部の先輩と遊ぶように。先輩は大学生だったので、先輩と遊んでいたら、大学生の遊びを一通り経験してしまっていた。
「今だから言えるけど、先輩の友達に ID を借りてクラブに遊びに行ったり、お酒とかタバコも高校生のうちに経験してしまったんですよね。」
大学生の遊びを先取りしていた加登少年。大学に入るとすでに遊び尽くした感があり、もう一度体を動かすことがしたいと思っていたところ、偶然、前の席の子がブレイクダンスサークルに入るというので、一緒についていった。
「ブレイクダンスって、簡単にできるものじゃないんですよね。体の動かし方が分からないとできないし、1つ動きができるようになっても、ずっと連続してやるには、また違う体の使い方が必要なんです。色んな技を、1つずつ習得していくのが楽しかった。」
はじめはサボっていたダンスサークルの体験入部。最後の1週間真面目に取り組んだら、ハマることになってしまった。その後、大学2年の時に交換留学にいくが、留学先でもブレイクダンスばかりやっていたという。
「ほぼ、ダンス留学でしたね。(笑)」
日本酒はただの罰ゲームのお酒
留学中は現地のブレイクダンスチームに入り、ダンス仲間とつるんでいた。そして、ある時、仲間との飲み会で、加登さんの人生を変えるきっかけとなることが起こった。
「飲みの席で、各国のお国自慢が始まって、いざ自分に話が振られた時に日本のことが話せなかった。その時はなんでこいつら、こんなに自分の国のこと喋れるのかって思ってました。」
政治も文化も、特に日本のこと何も知らないけど、なにか?みたいなスタンスだったけれども、メンバーからの言葉に火がついた。
『海外に出てくる前に自分の国の文化を理解して話せるようになってから出て来い! なぜ自国のアイデンティティーがないのに外に出てくるんだ!』
海外留学する理由は人それぞれで自由なはずなのに、なぜそんなこと言われなきゃいけないのか。そして日本のことについて答えられない自分にも苛立ちを感じた。
「負けず嫌いな性格なので、ムカつきましたね。その時言われたことが、ずっと引っかかっていました。」
帰国後日本文化について勉強していくと、日本酒に興味を持つことに。仲間との飲み会で盛り上がっていた話題が各国のお酒だったことと、「SAKEって美味しいの?」の質問に答えられなかったことで余計に引っかかったのかもしれない。
日本酒について調べ始めると、今まで見えてなかったことが目につくようになった。日本酒専門店や日本酒専門居酒屋があることをそこで初めて知る。
「留学に行く前の日本酒のイメージは、サークルの飲み会で飲まされる罰ゲーム用のお酒で、“冷酒”と“熱燗”しかないと思っていました。」
日本酒専門店にいくと、メニューにずらりと並ぶ日本酒の銘柄。どれを飲んだら良いかわからず、マスターにおすすめを選んでもらい飲むことに。一口含むと……、フルーティーでほのかに感じる果実感、甘すぎず酸味もほどほどにあるジューシーな味わい。今までの日本酒のイメージがガラリと変わった。
「日本酒ってこんな味だったっけ……
僕が今まで思っていた日本酒のイメージって、もしかしたら間違っていたのかも。」
悪いイメージしかなかった日本酒だけに、思ってもない豊かな味わいを感じ、一気に引き込まれていった。
美味いお酒を造って、あいつらに飲ませたい!
日本酒を色々調べていくと、日本酒は年々生産量も減り製造者数も減っている斜陽産業という現状を知った。
「僕の世代や、ちょっと上の世代がもつ日本酒のイメージって、美味しくないか二日酔いする罰ゲームのお酒っていう感覚が強かったんですよね。だけど日本酒専門店にいって僕は、日本酒って本当は美味しいものなんだって気づいてしまった。そのイメージをどうにか変えられないかなって、何故か思ったんですよね。」
日本酒に悪い印象しかなかった加登さんが、日本酒の世界を知り、日本酒に関わる仕事をしたいと思い始めた。元々家が商売をしていたこともあり、小さい頃から経営者になることは必然だと思っていたので、日本酒の会社をつくることに。
「どうせやるんだったら自分で造ったものを売りたい。海外であの時イラッとした奴らにも自分の造ったお酒を飲ませて、『うまい』って言わせたいのが大きかったですね。すごい軽いノリでした。(笑)」
ここしかない! 僕が絶対黒字化できる。
日本酒を製造する会社をつくるには、清酒製造免許が必要で現状では新しく取得することは難しい。そこで、加登さんは酒蔵を買収することを思いつく。2018年3月、勤めていた証券会社を辞め天領盃酒造を買収した。
買収するのは決して簡単ではなかったという。何十回と事業計画書を書き直し、なんとかOKもらえた。今見返すとなぜOKもらえたか分からないほど内容は薄っぺらいものだったという。だが、諦めなかったのにも理由がある。
「一見すれば手の施しようがない潰れるべき会社でした。でも、僕が経営者になれば絶対黒字になると思ったからここを諦めるわけにはいかないって思ってました。」
買収後は社名以外全て変えていった。
「当時ボロボロだった売店にみんなを集めて、ついて来れない人はついて来なくていいって言いました。今までと全く違う方向性で会社を経営していくので、本当に無理だと思うんだったらやめた方がいいですって。そしたら、みんなどんどん辞めていきましたね。」
当時14人いた従業員は、4人残った。
会社経営と自分のお酒を作りたいという想い。両方やり遂げるのも相当な体力だったと思う。今でこそようやくゼロ地点に立ったという天領盃酒造。買収から4年、全く知らない日本酒業界に飛び込み、ブランドも立ち上げ、会社を経営している。軽くお話ししているけれども、たくさん悩んだり、辛い思いもしているのではないだろうか。
背中を見て覚えろでは、続いていかない
日本酒づくりを学ぶのも簡単ではなかった。昔からいた製造の方は背中を見て覚えろタイプだったので、とことん知りたい加登さんは、感覚論では納得しなかった。そこで、2019年の5月からの2ヶ月、 広島の酒類総合研究所で基本を学び、同年11月に広島の相原酒造で酒造りを教わる。12月から再び天領盃酒造に戻り、製造責任者を務めた。
「基本は一応習いましたけど、そこからは独学。なので、今は僕なりの造り方になっています。」
機械も一新し、自分なりにも日本酒づくりの理論ができ、新しく入ってくる方に説明できるようマニュアル化して伝えている。
「アウトプットができないのはちゃんと理解してない証拠。自分が理解できるまで、ちゃんと知りたいんです。」
テニスでも、ダンスでも、いかに効率的に早く習得するかを考えながらやっていたことが活きているともいう。
「自分の知的好奇心のままっていう感じはありますね。お酒造りもそうですけど何事も、何かきっかけがあってできている。なんで?を繰り返すと根本にたどりつくので、根本を理解できれば僕はもう満足。」
オリジナルブランド「雅楽代(ウタシロ)」
就任し1年後の2019年5月、新しい天領盃酒造のブランド「雅楽代」ができた。天領盃酒造がある地名の「加茂歌代」と加登さんのお酒に対する想い「お客様の思い出に残る楽しい時間を演出する」が合った名前だ。
「僕は、お酒はその場を楽しくするための潤滑油としか思っていません。飲む人が美味しかったり、楽しい時間にならないと、うちのお酒の存在価値はないと思う。」
美味しいや楽しいは人それぞれで、強要するものではないという。さらに、雅楽代にはペルソナ的なターゲットは設定していないとも教えてくれた。
「若いから甘いのが好き、年配だからすっきりしたものが好きっていう議論って根拠がない。甘いのが好きな高齢者もいるし、すっきりが好きな若い人もいる。年齢層によって味の分布っていうのは絶対測れないから、どこ向けのターゲットとか、誰向けとか造るだけ無駄だなと思ったんですよね。」
「なので、雅楽代は僕が好きな味を造っています。僕の好きな味に共感してくれるすべての世代の人たちが買って飲んでくれたらいい。」
さらに、自分達の味覚が年を重ねるごとに変わっていくように、この雅楽代も毎回進化し続けている。
「常にその時の“もっと美味しい”を目指して、仕込みタンクごとに味を変えています。だけど正直言うと、その変化に気付ける人はほぼいないんじゃないかな。」
年々美味しくなってるお酒と聞くと、ワクワクする。1年前に飲んだお酒をもう一度飲んだら、あの時より美味しい。そんな体験をしたらもう誰もが雅楽代の虜になりそうだ。そして、さらに雅楽代にかける思いは続く。
「日本酒を一時のブームにしたくないんです。目指しているのは流行りものではなくコッペパンとかガリガリくんみたいな感じですね。地味だけどずっとそこにあるみたいな。」
調子良く売れてきても、製造量をすぐ増やすことはしないという。ここはビビリの加登さんが現るところ。ちょっとずつ増やして確実に、緩やかな成長を目指している。これはもう加登さんの代では終わらない。
「あんまり僕の代で完結させるつもりはないですね。親の会社も昔から続いているので、先祖代々とか子孫がつぐっていうのが当たり前っていう、その感覚が残っているのかもしれないです。」
佐渡にお酒のテーマパークをつくる
今後は、天領盃酒造の敷地を使い、いろんなお酒が飲めるお酒のテーマパークを計画中と教えてくれた。今はクラフトビールのトキブルワリーが隣接しているが、これからさまざまなお酒をつくる人を集める予定。
「ここに来れば佐渡の日本酒をはじめとする、お酒がすべて揃う場所にしたいです。“良いものを造りたい”という思いがある人たちが集まる場で、お酒の魅力を体験して欲しい。佐渡は観光地でもあるので観光資源をつくっていきたいですね。人が集まれば僕たちのことも知ってもらえるし、購入にも繋がる、みんなが幸せになる良いことだらけだと思うんです。」
最近では、海外の賞も受賞できたことから、海外進出も積極的に考えている。世界に雅楽代が広がっていく日もそう遠くはないかもしれない。
今後は自分の経験を誰かに伝えたり、コンサル的な関わりをしていきたいとも語る。伝統産業や文化継承となると暗黙知的な部分が多い分野。修行して体に技術を身につけることも重要だけど、加登さんのように技術をちゃんと理解して継承していけるようマニュアル化して残すこともこれからは必要だと思う。
とことん突き詰め、気になることは理解したくなる加登さん。お酒造りに関わらず、今後はいろんな分野で活躍している姿が思い浮かびます。
[写真]柴田 和花子
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