あちらにいる鬼 井上荒野
初版 2021年11月 朝日文庫
あらすじ
人気作家の長内みはるは、講演旅行をきっかけに戦後派を代表する作家・白木篤郎と男女の関係になる。
一方、白木の妻である笙子は、夫の手あたり次第とも言える女性との淫行を黙認、夫婦として平穏な生活を保っていた。
だが、みはるにとって白木は肉体の関係だけに終わらず、〈書くこと〉による繋がりを深めることで、かけがえのない存在となっていく。
二人のあいだを行き来する白木だが、度を越した女性との交わりは止まることがない。
白木=鬼を通じて響き合う二人は、どこにたどりつくのか――。
父・井上光晴と母、そして瀬戸内寂聴の〈特別な関係〉に、
はじめて光をあてた正真正銘の問題作にして、満を持して放つ著者の最高傑作!
(アマゾン商品紹介より)
不倫を正面から描いた作品。否定も肯定もしていない。
いや、前半はどちらかといえば否定的なニュアンスがあるかな。
白木篤郎は、小説家としては鳴かず飛ばずで、噓つきで、女を口説くのにトランプ占いというお寒い芸を持ち出す・・と。その姿はもはや滑稽ですらある。
みはるも、夫と娘を捨て、男のもとに走り、その男も捨てまた違う男に走り、
その後に出会ったのが白木だったわけで・・。
二人とも、現代の文化人ならばSNSなどでけちょんけちょんに叩かれて、ワイドショーでは二流タレントに裁かれて、社会から抹殺されているところだろう。
白木の妻、笙子は夫の不貞をほぼすべて気づいていながら黙認し決して別れようとはしない。
みはるのほうが先に篤郎との関係を清算するのだが・・。
その時の二人の女の心境を本文から抜粋する。
笙子
もうがまんできない、別れましょう。篤郎に、そう言ったら。
別れることは出来るだろう。篤郎がどれほど言い訳しても説得しても怒っても嘆いても、私さえその気になれば。子供たちは私と暮らすことになるだろう。篤郎が親権を主張するとは思えない。生活はどうするか。佐世保の実家に帰ればいい。両親は嘆くだろうが、最終的には迎え入れてくれるだろう。仕事を探そう。国語の教師に戻れるかもしれない。家庭教師をしてもいい。その合間に小説を書こう。
私はグラスを水切りカゴに伏せる。
床に叩きつけて割ったりはしない、もちろん。ただ空想してみただけだ。
私は篤郎と別れない。別れられないのではなく、別れないのだ。
(本文163Pより)
みはる
私の体の奥底から込み上げてくるものがあった。この男がいとしい、とわたしは思った。どうしようもない男だけれど、いとしい。いとしくてしかたがない。
白木との関係を終わりにしたいと、これまでにない熱量で思ったのも、同時だった。
(本文148Pより)
二人の女にこうまで言わしめる白木篤郎とは何者なんだ。
後半はさらにひどくなり・・
小説塾みたいたものを始めては、手当たり次第教え子に手を出すとか・・。
それでも、笙子とみはるは家族ぐるみの朋友のような関係になって篤郎の生涯に寄り添っていく。その他の女たちにしてもなぜこの男にそんなに引き寄せられるのか。
なぜ、こんな男がモテるのか・・。
実娘でもある著者はそこをどう考えているのか。
そこが本書の読みどころだろう。
瀬戸内寂聴の晩年のドキュメンタリーは結構観たし、母がファンで直接岩手のお寺に足を運んで講和を聞きに行った話をさんざん聞かされたこともあったし。
そこから私が感じた寂聴さん像は
自分の気持ちに正直に行動することを貫いた人だ。
それは時に他者を傷つけたり、社会のルールに不貞を働くことにもなるだろうが、
それでも生涯をかけて貫き通せば、それは一つの生き方として逆に説得力も出てくる。
白木はそれとは逆のタイプとして描かれている。
白木は自分の気持ちから遠ざかろうと行動した人だ。
嘘をつき、淫行を繰り返し、真実を隠し、自分の気持ちを遠ざけるように行動した。
しかし、そうした行動から逆に垣間見えてしまう真実が、
ある種の人たちを強烈に惹きつけていたのかもしれない。
(私のようなバカ正直な人間はつまらないのよ~きっと)
病床に伏した篤郎の体を笙子がマッサージするシーンでは、どんな人間でも、生命とは尊く、まして家族にとっては、かけがえのないものだなぁと思った。
されど・・・。
不倫とは
結婚している相手がいる身で他の異性と性的関係を持つこと
と仮定して。
その是非を問われるなら、私はやはり非だと思う。
一番は子供に対する責任。
その人道的倫理に不貞しているという事だと思うから。
本書の白木篤郎はいくら女と関係を持っても子供作ったという描写は出てこない。
そこが比較的爽やかに読める点でもあるのだが・・
一人でも外に子供ができて、それを認知するしないという話になれば、本書の印象もガラッと変わることになったはずだろう。
実際の井上光晴はどうだったのか・・・