西尾幹二『日本と西欧の五〇〇年史』を読む①西尾幹二先生の「最後の心意気」
傘寿を前にした西尾幹二先生が大著を出されました。
本書のもとになっているのは、雑誌『正論』創刊40周年記念連載の『戦争史観の転換』です。連載当時は『正論』の創刊周年記念に相応しい超弩級連載と期待してましたが時折おやすみの回があり、先生の健康を案じていた記憶があります。
この連載をもとに、私も単行本化を(勝手ながら)期待して、少し書いていました。
一読して、やはり途轍もない大著であり、「最後の心意気」との言もあるだけに、三十余年にわたる西尾先生の愛読者として改めて感想を綴ることで感謝に代えたいと思います。
「まえがき」に西尾先生との出会いを思いだした
本書のまえがきにあります。
思わず身を正してこの一節を読みました。「符号」を感じたのは西尾先生ではなく読者である自分のほうだからです。
私が、西尾先生の本を初めて読んだのは高校2年生の時です。模擬試験の現代文に引用されていて、(確か『ヨーロッパ像の転換』だったと思います)。試験の設問などすっ飛ばして、面白いな、と感じたことが強烈に印象に残っています。田舎の電車通学の帰りに駅前の書店で講談社現代新書の『ヨーロッパの個人主義』を購入した日を懐かしく思い出しました。
ちょうど高校の国語教師も書店に立ち寄っており、生徒の立ち読みしている本を覗き込んで(今ならプライバシーで大問題ですが)「大人の本を買ってるんじゃないかと心配したが、大人の本で安心したゾ」と笑った後に「西尾幹二さんかぁ、ニーチェの専門家なんだねえ、ニーチェも読めるようになるといいゾ」と話していたのが、思いだされます。
そしてその数年後に読んだニーチェ『この人を見よ』。西尾先生の余りに迫力ある訳文に驚いた記憶もあります。
ニーチェと言えば全集4巻と5巻を今、改めて繙く余裕がないのが残念なところですが、数十年前の読後感との相違を愉しみたいところです。
もっとも西尾先生の本を読んで面白いと感じるような高校生だけに、リベラル(を僭称する)珍説奇論と学者特有の悪文からの「現代文」に頭を痛める副作用に見舞われました。
ただ、西尾先生としては、この著作だけが代表作と思われるのが心外だったようですが、(当時の)若い読者を知に誘う契機になったことを改めて感謝したいと思います。
ちょうど最近、郷里の高校の最寄り駅を通る機会もありました。西尾先生の最後の大著を買うならば、と言うことで、自分自身の「知的読書の原点」で再度購入しようと思いたちました。数十年ぶりに駅を降りて寄ってみましたが、しかし、かつての書店も跡形もなくなっていました。
先生の論壇デビュー作を買い求めたかつての高校生も小さい文字が苦になり、Kindleで読みました。書き手の西尾先生だけでなく読む自分も年を取ったかと苦笑しました。
『ヨーロッパ像の転換』の三島由紀夫の推薦の辞を思いだす
西尾先生のこの最後の大著を読んで、改めて、論壇デビュー作での三島由紀夫の推薦の辞を思いださずにはいられませんでした。
まさに、今、そのまま本書の紹介なのだと思います。
三島由紀夫の推薦の辞の経緯は、西尾先生の著作にも詳しく出ています。
蛇足ですが「ペルシャ人の手紙」は、政治学史の時間で知りましたが、モンテスキューの著作です。三権分立で中学生でも知るモンテスキューが世に出たきっかけのようですが意外に知られていません。2020年の訳が非常に読み易いものになっていました。
「あなた自身はどう考えるのか?」という鋭い問いかけ
さて、本書について。相変わらずの「西尾節」に感慨と、強烈な問題提起に感嘆しました。しかし、年を取るにつれて、西尾先生での著作の端々に自分自身への問いかけが重く響いてきます。言うなれば、「あなた自身はどう考えるのか?」という太く鋭い問いかけが突き付けられます。
例えば本書でも後期水戸学に言及する一節があります。
後期水戸学に限らず、私も江戸の知識人に見えていたものが自分自身見えているのだろうか、なにか重要な観点を見落としてないだろうか、そう思う時があります。ネットで世界の情報に接して仕事する中で、ひょっとして何か重要な点を見落としているのではないか、と感じるときがあります。
私自身も、英語・中国語・韓国語を学び、仕事で使っています。周りには英語に不自由しない人もいます。最近では自動翻訳の技術も向上し、数十年前に比べれば言語の壁も驚くほど低くなりました。最新の情報もインターネットで全くタイムラグなく入ります。江戸時代の知識人が得ていた情報量の数万倍です。
しかも、現代の私たちは世界についても社会科学や人文科学のメソッドで体系立てて学べている「はず」です。溢れる情報の中で判断に必要な基本的な知識もある「はず」で、知的な訓練も受けた「はず」です。
本当にそうでしょうか。
数十年前に比べれば、西欧に勝手に範を垂れて日本を叱ったつもりの露骨で安直な「出羽守」は減ったかのように見えます。
しかし、陰に日向に西欧の強い影響力はなおも衰えていません。今もなお、日本の知識人の頭の中にある「西欧」の存在感は圧倒的です。
西尾先生の怒り、苛立ちの表現としての「ハワイ」の比肩
本書は、ハワイについての話で終わります。『正論での』連載当時、ハワイを比肩する話で終わっていましたが「連載の完結」のお知らせが『正論』でも無かったので、次号の続きがあるのかと(勝手に)思っていたのと、その続きが無いのは西尾先生の病状が良くないのかとも思っていました。
ハワイについては『GHQ焚書図書開封』5巻で述べられています。
震災のあった2011年夏に出版され、年末に読んだ記憶があります。ちょうどその年2012年末に勤務先の社員旅行でハワイに行く機会がありました。
ハワイでは観光でBBQしながらパフォーマンスを見る機会がありました。動画にアップされているようなものです。(実際はこの動画より観光客のウケねらいの際どいものでした)
私は、表現し難いもの悲しさを一人感じました。隣席の白人客の笑い。それに同調するかのような日本人の拍手。ハワイのこの姿は、観て笑って楽しめるような他人事なのだろうか、と。その当時ふと考えたことが、さらに西尾先生の筆により、明確に再現され、本書の結末を迎えます。
「火」が見えないのか、見ようとしないのか。
アマゾンのサイトに出ていた「最後のメッセージ」にある「中世が現代史に火をつけているではないか。」
燃えさかり炎上する風景を「見えない日本の知識人」「見ようとしない日本の知識人」。危機は静かに忍び寄るどころか、既にそのさなかにあります。
(②に続きます)