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「みんなで信じる」の仕組み

架空というか虚構というか共同幻想というか、人が作った設定をみんなで信じて協力しあうのって不思議じゃないですか?

例えば、お札。
お札の紙自体は紙切れなのでほとんど価値がありません。紙はヤギでもなければ食べられないし、その紙で寒さを凌ごうと身にまとっても股間を隠すくらいにしかなりません。

だがしかし。そこに特定のおじさんの顔と細かな模様、国が大事にしているものと「壱万円」という文字が印刷されるとあら不思議、その紙切れと実質的に価値がある肉や果物を交換できてしまいます。何枚かあれば金や銀などの貴金属、iPhoneなどと交換できるのです。

自作で紙切れに、偉人である坂本龍馬とその周りを精細な模様で飾り付け、国魚の錦鯉の横に「10000」という文字を印刷した紙を作ったとします。作った本人は完全にこれを紙幣と信じており、紙幣を超えるハイクオリティな印刷とデザインの紙だとしても、銀行では換金できません。不審者扱いで警察を呼ばれる始末です。

一方で、人も機械も見分けがつかないほどの精巧にできた偽札は使えてしまいます。銀行がその偽札を受け取ったら本物と勘違いして扱い、預金や両替などに応じてくれます。犯罪ですが真贋がわからないので警察に捕まりません。

この「福沢諭吉と国鳥のキジと壱万円の文字とが印刷された紙切れは価値がある」という概念は、「紙幣」という虚構の設定です。ただの設定にも関わらず、みんながみんな一緒になってあたりまえのように信じて、共通の価値という設定でモノやサービスと交換したり経済活動をしています。

お金だけではありません。
信じると言えば宗教もそうですし、国、法律、企業、イデオロギー、ブランドなども虚構の設定です。虚構の設定だから、信じている人が全員なくなればこの概念は消滅します。また、虚構の設定だから不完全であり矛盾が多いです。それでも人は信じて協力し活動しています。まったくもって不思議です。

ということでこの記事では、この虚構の設定を「みんなで信じる」とは何なのか?どうやって「みんなで信じる」ことができるのか? を説明していきます。

何を信じているのか?

人間が何かを信じることについての説明は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書に詳しく書かれていいますので引用します。

人が信じることができるのは現実のみです。正確には現実と思えることのみです。フィクションとわかっていたら現実のことだと信じることは難しいですよね。

ハラリ氏は現実には3種類あるといっています。
まずは、客観的現実主観的現実の2つです。

客観的現実は、万有引力など信じているか否かに関係なく存在することです。万有引力はニュートンが発見するより前から存在してました。現代で引力を信じる人が全員なくなっても存在し続けます。

一方、主観的現実は、私個人が信じ何を感じているか、です。例えば、頭が痛くて病院に行ったとする。それで、血液検査、尿検査、レントゲン、MRI等々あらゆる検査をして医者が完全な健康と診断をしたとする。客観的検査では痛みが感じることはないと結果がでても、頭痛は私にとっては完全に現実です。

ハラリ氏が指摘するのは、大抵の人は主観的現実ではないならば客観的現実だと考える、ということです。神や国やお金は私の主観的現実ではないから、これは客観的現に違いない、となる、みたいな。

ところが第三の現実があります。共同主観的現実です。お金も法律が変わったり信じている人が全員死ねば消滅するので、客観的現実ではなく共同主観的現実というわけです。

先程の指摘の通り、人は主観的現実ではないことを客観的現実と捉えてしまう傾向にあるので、にわかに信じがたいかもしれません。紙幣も共同主観的現実でしたが、別の例を挙げます。

企業や学校はいわゆる法人です。法という共同主観的現実である設定群に定められる法の人という設定です。例えば、トヨタという会社。

世の中のトヨタ車を全てスクラップにして、トヨタの建物を全部爆破して、トヨタの社員全員をジェノサイドしたとしても、トヨタは存在し続けます。ところが、廃業届を提出して精算すると、トヨタの車が世界にあふれていようが、新社屋を建築中だろうが、社員が倍になろうが、トヨタは消滅します。トヨタを含めあらゆる会社は客観的には存在しない共同主観的現実だからです。

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(一部Toyota のHPより引用)

同じ虚構だからといって共同主観的現実として信じられていないものもあります。例えば映画や漫画などの人が作った虚構の物語です。例えば、鬼滅の刃。鬼滅の刃の映画を2000万人が見ていようが鬼や鬼殺隊が実在すると信じている大人はほとんどいません。どんなに禰豆子のコスプレに魅了されようがです。仮に物語を現実と勘違いしてしまった人は、映画の出来栄えが良すぎて没入感や自己投影があって主観的現実として受け入れて信じてしまったということでしょう。世界初の映画で汽車がスクリーンに映された時に本物と思って叫んで逃げてしまった観客に近い心境です。

このように、人は、客観的現実、主観的現実、共同主観的現実のいずれかの現実として捉えることで、信じることができるのです。

どうやって信じることができるのか?

とはいえ、みんながみんなで信じている共同主観的現実は人が作ったフィクションです。虚構にもかかわらず、あたかも現実かのように信じることができるようになるにはどうすればいいのでしょう?それも1人だけでなく複数人、それどころか宗教や企業や貨幣のように数百100万人規模で一緒になって信じているのはどういう仕組みなのか?

この問いに対しハラリ氏は著書「21 Lessons」で、

その答えは聖職者やシャーマンが見つけている。すなわち「儀式」だ。

と述べています。

儀式は人が考えたフィクションを現実として感じさせる不思議な行為です

儀式と言ったら、動物の血を祭壇に捧げ荒ぶる天候の神を鎮める、みたいな宗教的なイメージがあるかもしれません。もちろんこのような宗教的な儀式もそうですが、国・企業・貨幣などのイデオロギーも儀式で成り立っています。これはどういうことか?

儀式の本質は「XはYである」という極シンプルな魔法の公式です。XがYであるかは事実でなくても構いません。あらゆる儀式がこの公式で説明がつきます。先程の宗教的な儀式を例に説明してみます。

動物の血を祭壇に捧げ荒ぶる天候の神を鎮める、というのを儀式の公式に当てはめると、

X=天候が不順を改善にする方法、Y=動物の血を裁断に捧げる

ですね。
この公式をもう少し細かく分解して見ていきましょう。

日照りや豪雨などの天候の不順は、山の神が怒っている、という設定です。

X=天候の不順、Y=山の神の怒りのせい

ですね。で、

X=山の神の怒りを鎮める、Y=山の神の好物を捧げる

となります。さらに、

X=山の神に捧げる方法、Y=祭壇を利用する

であり、

X=山の神の好物、Y=動物の血

です。

というわけで、数学の証明問題みたいになってしまいましたが、天候の不順を解決するのに動物の血を祭壇に捧げる、という式が成り立ちます。日照りや豪雨などの天候不順に効果があったりなかったりだったとしても、続けて行うことで儀式が人々に浸透していきます。

XとYの関係は事実である必要はなく儀式の公式は成立します。言い切りです。そして、この「XはYである」と表せる儀式を何度も何度も繰り返すことによって現実のように感じられてくる、という仕組みなのです。

これは先述の通り宗教だけではありません。イデオロギーなど他の共同主観的現実にも言えます。日本を蔓延るイデオロギーの一つ、民主主義で言えばこのような儀式です。

X=人、Y=平等な自由な意志を持っている
X=自由意志を持つ者、Y=正しくものを選ぶことができる
X=投票箱に選んだ名前を入れる、Y=正しい者である

これが選挙という儀式です。人は自由意志を持っていると主観的に感じはしますが、「平等」というのは人が作った設定であり虚構ですよね。「平等」という設定なので一人一票の格差はないという設定になるのです。最初に選挙をした明治の人は確実にこの新しい儀式に戸惑ったはずです。江戸時代にはこのような人間は平等という設定は存在せず、封建的な大名ピラミッドヒエラルキーでしたから。現代で、選挙で選ばれた人が国の方針を決めるべきである、ということを当たり前に信じているのは、選挙という民主主義の儀式があたりまえのように繰り返し行われてきて、共同主観的現実となって浸透しているからです。

国という存在を国民が信じているのも「国旗や国歌は国の象徴である」などの儀式の積み重ねで成り立っていますし、企業も株式という儀式で成立しています。

このように、儀式とその繰り返しこそが信じる仕組みなのです。儀式が人間社会の礎であると言っても過言ではありません。

もっと深く信じる方法

人が作った設定にも関わらず、どうやってあたかも現実かのように信じるのか、について説明してきました。

信じるには儀式の繰り返しが重要と説明しましたが、信仰を深める方法はそれだけではありません。儀式の種類によって信心を深めさせることができるのです。

どういう儀式か?
ずばり、感覚と感情を刺激する儀式です。

感覚というのは、視覚と聴覚を主とした五感などの外から受け取る身体的情報、感情は喜怒哀楽など内から受け取る精神的情報ですね。

例えば、国という共同主観的現実はどうやって信心を強めているか。

国は虚構の設定ですから色や形が定まってません。国境やその内側に国土という色と形があるじゃないかという反論がありそうですが、客観的には国土はただの土です。国境ギリギリ内側の土地が、条約締結などなんかしらの儀式によって他国になった瞬間に、その土の色や形や構成物などの客観的な性質が変わる、なんてことはないですよね。

ところが、国の存在を錯覚させる儀式は数多く存在します。
例えば国旗という儀式。全ての国が、なぜか国旗を定めています。さらには国旗の内容に物語などを設定しています。
フランスの国旗でいうならば、青、白、赤のトリコロールです。青は自由、白は平等、赤は友愛を表す、というのは「XはYだ」という儀式の公式ですよね。(色の意味は諸説あり)

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国の内側だけに信仰されているわけではないので、日本で外国の国旗を意図的に燃やすとなぜか外国国章損壊罪という犯罪になったりします。燃やしているのは印刷されたただの布です。

国旗の他にも国章(日本は菊の御紋)など国を見えると錯覚させる視覚の儀式はたくさんあります。

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視覚だけでなく、聴覚の刺激する儀式もあります。国歌などですね。味覚や嗅覚でいったら各国の国民食ソウルフード、触覚なら和服やチャイナ服など民族衣装などです。

国というものはこれらのような感覚を刺激する儀式たちによって現実と錯覚させられています。

感情も同様に錯覚のトリガーです。お祭りは飲んで騒いで楽しむ儀式です。キリスト教で言うとイースターやクリスマス、アメリカという国で言うとサンクスギビングデー、会社でいうと忘年会などの儀式ですね。ご飯を食べる、歌を聞くなどの感覚をトリガーに楽しい感情が起き、宗教・国・会社などの虚構である共同主観現実をリアルに感じ、より結束を強まるなどの効果があります。

特に苦しみは、儀式の中で最も重要な感情になります。
宗教でも断食や苦行、国の場合は刑罰など、物理的な制約を与え苦しい感情を引き起こすことで、どの感情よりも共同主観的現実をリアルに感じ信じる力を強固にします。

個人の苦しみだけでなく集団としての苦しみも有効です。集団の苦しみ、つまり犠牲です。犠牲は、もっとも信仰を強化する儀式です。

先ほどの生贄の例で見てみましょう。「動物の血を祭壇に捧げ荒ぶる天候の神を鎮める」というのは、動物の犠牲がありますよね。この動物というのは、ネズミなどの不要な害獣ではなく、牧畜として有用な羊などを用いるところがポイントです。

犠牲になるものが集団にとって貴重であればあるほど儀式に効果があります。

繁殖力のなくなった老いた羊ではなく、これから多くの子どもを残せそうな若い羊のほうが貴重です。それゆえ犠牲として効果的なのは若い羊の方になります。その方が集団にとって苦しい感情を引き起こすからです。

これはどういう仕組なのか。
認知機能において明確な見解はまだありませんが、不可解なものでも何かには意味がある、としてしまう人間の認知バグを利用したものと考えられています。矛盾したり叶わない理想だったりする認知的不協和を解消したいという脳の傾向を利用している、ということです。日照りなどの天候不順を解消したい、けどできない、犠牲を払って解消しよう、犠牲を払ったのだもの意味があるはずだ、というロジックがその仕組になります。

犠牲度が高いほど儀式の説得力が増し、大きな矛盾やかけ離れた理想を信じるようにできるのです。だかから、天候不順よりも火山の噴火など大きな被害が出そうなとき、羊ではなく人間を生贄として犠牲にしたという伝承も聞いたことがあるのではないでしょうか。この場合に犠牲になるのは、病気で寝たきりの爺さんではなく、健康で美しい処女という集団にとって最も貴重な存在だったりしますよね。

もっとシンプルな例で言えば、婚約指輪。新たな夫婦という最小の共同体を形成するために、「給料の三ヶ月分」という生きていくために大事な大金を、暮らしに何の役に立たない宝石付きの指輪に変える儀式ですね。給料3ヶ月分もの犠牲を捧げる、だから信じてくれ、結婚してくれ、というわけです。

このように、キリストが十字架で処刑、お国のためにカミカゼで殉職、夢の超音速コンコルドのプロジェクトで投じた莫大な資金、など共同主観的現実を信じることには犠牲が有効的なのです。

みんなで信じる仕組みで注意しなければないのは、錯覚が有効すぎて理想とのギャップが離れていくことです。火山の噴火を鎮めるのに何人もの娘を生贄に捧げても意味がなく、犠牲だけが増えつつも後戻りできない状態になってしまう、なんてことが起きるからです。これだけの犠牲があったんだからきっと願いは実現するだろうとしてしまう認知機能のバグですね。カルトな宗教や過激なイデオロギーの狂信的さは、この犠牲システムの暴走と言えます。

まとめ

以上、「みんなで信じる」の仕組みでした。
感覚や感情を刺激するような儀式の繰り返しが「みんなで信じる」を根付かせる仕組みというわけなのです。

宗教、イデオロギー、国、会社など、虚構なんてものを信じることは馬鹿げているので辞めるべき、ということを言いたいのではありません。

むしろ、人と協力するには虚構を信じることが不可欠です。

しかしながら、2020年代の現代では、自分が「虚構を共同主観的現実として信じている」と自覚することができず客観的現実と勘違いし、他者にもその設定を強要することが多くなってきているように感じます。例えば、ポリティカル・コレクトネスなどですね。人権も設定なので、人類は平等だけど移民は反対、のような矛盾が露呈すればするほど声を大きくして信仰を深めないと保てなくなっているかのようです。

だからこそ、自分がいったいどの虚構を信じているかを把握して、その虚構から一旦は距離をとり、新たな虚構を創造し、共同主観的現実としていく時代になっていくと考えています。もちろん新しかろうが古かろうが虚構には必ず矛盾があります。だから、矛盾する虚構と離れる・新たに創る・それを信じるというサイクルを繰り返す、虚構の新陳代謝がこれから求められていくと信じています。

この虚構の新陳代謝という考えは、まだ主観的現実レベルなので、この身を犠牲にしてでも「みんなで信じる」レベルまで達したいという所存です。

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