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きみはママとパパのイケメン

 多くの人がそうしているように、スマホのロック画面を「最推し」に、つまり息子と娘のツーショットにしているのだけれど、先日七五三を終え、写真をその時撮ったものに差し替えた。
 娘がまだ赤ちゃんだった頃の二人から、今の二人へ。幼い頃の二人も可愛いが、私は「早く帰って(今の)二人に会いたいなぁ」と思いながら仕事をするわけだから、今の写真が良いのだ。
 すると、写真が変わっていることに気がついた5歳の息子・いちくんが、怒ったように言った。
「何で変えちゃったの! 赤ちゃんの頃の写真、かわいかったのに。今のぼくはブサイクなのに」

 何だって?????

 身体中からハテナが噴出した。
 もちろん、見目の評価は主観的なものであり、好みとか情とか贔屓目とか、あらゆるものがのっかってくるし、そもそもダイレクトにルッキズムな発言なんてしてはいけないよ、とたしなめるべきなのかもしれないけれど、それでもやや客観性を欠いた親の欲目入りではありますが、断じてうちの息子はブサイクだなんてことはございません!

「いちくん、何言ってんの? いちくんは世界で一番かわいい男の子なんだけど。とってもかわいくてかっこいいんだけど、なんでブサイクなんて思ったの?」
「だって、小さい頃のぼくはいい顔してたけど……今はこーんな(変顔連発)顔してるし」
「そりゃ変な顔すれば変な顔になるでしょうよ(親にとってはそれすら可愛いけど)」

 かわいいね、かわいいね、世界一かわいいねと唱え続けてきたのに、どうしてそんな自己評価になってしまったのだろう?
 ふと思い出したのは、実家に今でも飾られている1枚の写真だ。そこには年中の頃の私と、当時私が一番好きだった友達が一緒に写っている。あまり子どもを直接褒めるタイプでなかった父は置いておいて、母はその写真を見るたびに「二人ともかわいいねぇ」と褒めた。しかし、私は全然自分が可愛いと思えなかった。というか、その写真から「自分って可愛くないのでは?」と思うようになったというか。
 つまるところ、横に立つ友達が美少女なのである。三つ編みをくるんと丸めた凝った髪型にリボンをつけて、にこりと微笑む彼女と、おかっぱ頭で前髪ばっちり、で口をややへの字にした私。
 彼女に比べ、私は全然可愛くないな。
 私という歴史における比較文化の始まりである。

 思い当たる節が一つある。息子のクラスに、誰もが認めるイケメンがいるのだ。しかも背が高くて、運動神経も性格もいい。クラスの大半の女の子が、この子と結婚したいと豪語している。
「ぼくと◯◯くんと▲▲くんはえらばれないんだよね」
 何の気もないように、のんびりと笑って言っていたが、ひょっとしてもしなくても気にしていたのだろうか。

 無人島で暮らしていれば、誰かと比べる必要などないわけで、比較するようになったということは、それだけ息子と関わる人達が増え、社会が広がっているということ。それはとても喜ばしいことなのだが……。

 ブサイクだなんて思ってほしくないではないか。たとえそれが息子本人だとしても、私のかわいいかわいい息子のことを。

 母がよく言っていた。
「こんなに可愛く産んだのに!」「とってもかわいい」「あなたがクラスにいたらお友達になりたい」
 私は自己肯定感が低めの人間だけれども、それでもここぞという時には力を出して、求めるものを掴んでこれたのは、きっとそういう親の言葉のおかげなのだと思う。
 だから、今の私にできるのも、言葉のシャワーを浴びせることだけ。

「いちくんはかわいいし、とってもかっこいい。大好き。パパとママの宝物だよ」

 息子はもうすでにロック画面から興味がなくなったようで、別のものに気を取られながら、うん、とぞんざいに返事した。


サポートをご検討いただきありがとうございます! 主に息子のミルク代になります……笑。