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日本文化:「儀式」と「こだわり」の精神分析

はじめに

本稿では精神分析や文化論の立場から、日本人の「こだわり」・「強迫性」・「儀式」・「農耕」・「アイデンティティ」と、その繋がりについて考えてみたい。あくまで試論、私見である。職人、不安、形式、官僚、いわゆる「発達障害」、独創性などにも触れる。

◯「こだわり」

まず「こだわり」とは、特定の行為や形式・様式に執着することであろう。「シェフこだわりの~」などというように、最近では良い意味にも用いる。だが昔この言葉には、悪い意味しかなかったようだ(パオロ・マッツァリーノ『続・反社会学講座』ちくま文庫より)。職人などの独創的で、他の人と違う振る舞いを揶揄した言葉だったのかもしれない。
⇨ かつて「こだわり」はネガティブな意味を持つ言葉だった

◯「強迫性」

「強迫」というのは精神医学の概念で、こだわりが病的なさまを記述した言葉だと考えられる。有名な強迫行為には手を洗うのがやめられない洗浄強迫や、いちいち確かめてしまう確認強迫などが知られている。精神分析学者の土居健郎は強迫の心理についいて、「気がすまない」のが本質だと述べている(土居健郎『注釈 甘えの構造』弘文堂より)。日本の電車ダイヤなどは海外に比べてかなり几帳面であるが、これも強迫的な傾向が見られると言えよう。何でもきっちりしないと「気がすまない」のは、強迫性の顕れだからである。筆者自身も過度に几帳面な気質で、軽い強迫行為を持っていたことがある。その心理は、少なくとも自分をふり返るかぎり「自分自身が存在することの確認」だった気がする。不安だからこそ強迫行為が出ると言えるがその一方、もし仮に強迫行為すらできないとなると、極めて強い不安を覚えるのだ。
「こだわり」が病的に強いのが「強迫」傾向だから、この二つには繋がりがある

◯「儀式」

さて、日本人は儀式が好きである。習字でも武道でも「型」を重んじるし、結婚式のご祝儀や葬式の際の香典などには些細な決まり事がたくさんある。先の電車ダイヤの几帳面さと合わせて、これらも「強迫」行為に分類できるのではないだろうか。形式というのは、こだわらない人には何でもないことである。だが、こだわる人にとっては決定的に重要であり、形式が守られないと、存在を揺るがされるに近い何ともいえない不安を感じるのではないか。つまり、強迫行為を集団で共有しているのが「儀式」なのである。日本では、社会レベルで共有した「こだわり」を、まだ共有していない外部の人(たとえば若者、外国人など)に強要してしまうことも多いかと思う。表面上は外国に合わせて七変化する日本社会も、内面の形式は実質上あまり変わってこなかったように思われるためだ。形式・パターンを死守することで、日本は永らえてきたところがあると言える。
⇨「儀式」は「強迫性」(「こだわり」の一形態)の集団共有である

◯「農耕」

さて、日本の歴史は少なくとも縄文後期から、農耕稲作文化を伴っている。このことと、「こだわり」や「強迫性」や「儀式」は関係するのではないか。というのは農業は、暦に従って一定の「形式」を繰り返す行為だからである。それどころか形式を保たねば、立ち行かなくなってしまう。国が滅びるのだ。こうした形式重視とも呼べる「こだわり」や「強迫性」や「儀式」は、日本の官僚の形式主義や手続き主義、とにかく前例に倣う前例主義に通じるものであろう。前例に無いことをするリスクというのは、農業において壊滅的な打撃をもたらしうるからだ。日本人が一定の形式にこだわって、予定変更に柔軟でない様子は、いわゆる「発達障害」の描写にもどこか類似するが、両方に共通するのは「自己存在に対する不安」かもしれない。だがいわゆる「発達障害」の人が日本で特に浮いてしまうのは、自己流の「こだわり」が周囲の持つ「こだわり」と異なるためだろう。いずれにせよそうした形式保持の傾向は、日本において社会や集団のレベルで保持されていると思う。
⇨日本人の「こだわり」・「強迫性」・「儀式志向」には、「農耕」との関わりが考えられる

◯「アイデンティティ」

強迫行為の本質は、「自分が存在すること(自己存在)の確認」ではないかと述べた。自己存在という言葉から連想するのは、やはり「アイデンティティ」である。ここで、日本人が集団的に同調することで、暦に合わせて農耕を行ってきたことを考えてみよう。同調のほうが主になってくると、デメリットも生じる。集団としてのアイデンティティは保てても、個人レベルのアイデンティティが不確かになってくるのだ。周りに合わせていれば生きていける農業国においては、個人が個人であることの価値は、さほど重要視されないからである。日本人がアイデンティティのそうした欠損を、「儀式」という「こだわり」の一形態を集団共有することで補ってきたと考えれば辻褄が合う。それでも次は、集団全体のアイデンティティを問わねばならなくなってくるのではないかと思う。考えてみれば日本人は、「日本人とは何か」と問う日本人論が大好きではないか。
⇨農耕社会で不安定になったアイデンティティを、日本人は「儀式」(些細な形式を含む)を共有することで補っている

さいごに

このように、日本人が形式を伴う「儀式」の共有を好むこととアイデンティティの概念には結びつきがある。また「儀式」とは「こだわり」や「強迫行為」の集団共有と言えるが、それらを集団で共有する理由には農業国だったことが関係している。そもそも「こだわり」が日本人にとって集団共有するものであったと考えれば、かつて個人の「こだわり」が揶揄されたことも理解はできる。集団で共有されたものでないからだ。もともと、独創性が育たない土壌があったということである。とはいえこれからは、個人個人がアイデンティティを深めることも、また独創性を養うことも生存に必要なのだろう。少なくとも今の日本は、農業主体では成り立っていないのだから。

最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。

(追記)
日本人は(俗な意味での)「予定調和」が大好きで、ドラマなどにもお決まりのパターンを求めることが多いと思う。これも農耕の比喩で解すれば、「暦通りに事が進む」ことに安心を感じる心理なのだろう。だが安心を求めるということは、どこか不安なのだと考えてよい。本当に安心していれば、そうした些細なことに安心を求めないはずだ。一方、好奇心や冒険心は本当の安心を土台に発動するものである。日本人が「好奇心や冒険心を持て」とやたら強調するのは、自分たちの安心がまだ根づいていないことと、それが故にそういう自由な心理に憧れていることとの両方を表していると考えられる。


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少し汚れていて申し訳ありません


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悟塔雛樹
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