河合隼雄先生のダジャレには意味があった
故・河合隼雄先生(筆者は僅かながらお会いしたことがあるので、親しみを込めて以下「隼雄先生」とお呼びする)はダジャレで有名なかただった。だがそれは、「河合隼雄先生の愉快な冗談」としか受け止められてこなかった節がある。筆者が思うに先生のダジャレは、民俗学で「類化性能」と呼ばれている能力の顕れだったのだ。
村上春樹さん(筆者もゆかりがある地域にいらした方なので、あえて「さん」づけにさせていただく)は隼雄先生のダジャレについて、「心理臨床家がカウンセリングの負の気配を自分から取り除く”悪魔祓い”のようなもの」と評されている(村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング)。だがそれならば、ただのナンセンスな冗談でもよかったはずだ。ダジャレである必然性が、やはりあったのではないだろうか。
類化性能とは民俗学の本(中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書)によると、「表面的には違っているものの間に、共通性や同質性を見出す思考方法」である(p.11)。またアナロジーと同義であり、「詩のことばなどが活用する『比喩』の能力」だという(p.18)。さらに「『類似=どこか似ている』という感覚をもとにして、ふつうなら離れたところに分離されてあるものごと同士が、ひとつに結びあわされて、新しいイメージをつくりだしていくようになる」(p.18-19)とある。これは正にダジャレではないか(同書には、ナゾナゾや和歌などの言葉遊びの例もある)。
ではダジャレを創る能力が類化性能だとして、なぜ隼雄先生なのだろうか。それは先生が心理臨床家だったからであろう。心理臨床は人命に関わる仕事で常に臨機応変・当意即妙でなければならず、「こういう事態にはこう対応すればよい」といったマニュアルを用意できない性質のものだからである(「自然科学的法則」がそのまま通用しない世界だ、と言い換えてよい)。こうした心理臨床の性質については、隼雄先生自身がご著書のなかで再三述べられている通りだ。
さらに連想されうるのは、先生がスイスに留学され日本で広められたユング心理学の影響である。このユングの心理学には「共時性(シンクロニシティ)」といって、「因果関係が無いものどうしを結びつけて意味を考える」という発想がある。卑近にも程がある、と言われるかもしれないが、やはりこれも「ダジャレ的」類化性能に近いのではないか。
隼雄先生が類化性能を、クライエントとの場で発揮されていたのは間違いないだろう。その力を言葉遊びに向けたとき、先生の口からダジャレが迸ったのも必然だと思う。これまで筆者もなんとなく「微笑ましい逸話」としてスルーしてきたことだが、村上春樹さんのご本を読み直す機会があり思い直した。先生のような素敵な方が、またこの世にお生まれになりますように。
(筆者は昔、河合隼雄先生が創設された臨床心理士の制度に救われたひとりである)
追記:隼雄先生の類化性能が、自然科学的な別化性能に裏打ちされていたことを念のために記しておく。だが、これは言うまでもないことかもしれない。隼雄先生は、元数学教員だったからである。理系の知恵を踏まえることにより、文系方面で活躍された稀有な学者だったのだ。
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