アメリカ留学を振り返って-思い出の恩師たちMemorable Teachers (5-4): University of Hawaii 9/1972-5/1973
はじめに
表紙写真 University of Hawaii (1970’s)
「アメリカ留学を振り返って-思い出の恩師たちMemorable Teachers : University of Hawaii 9/1972-5/1973」(5-1)(5-2)(5-3)に続く(5-4)です。
University of Hawaiiはとにかくカジュアル、先生方も学生もはみな短パンにT-shirts、気温が上がると男子学生は上半身丸裸、サンダルか裸足で闊歩していました。とにかくワイキキは一年中観光客だらけで、12月初め頃から年末年始にかけて、ホノルル市内dのあちこちでクラッカーが鳴り響き、New Year's Dayまじかになるとピークに達し、市内全体が一日中グオーンという轟音に包まれる始末。筆者は級友達と一緒にホノルルの反対側の海岸に非難し、ヤシの木陰でバーベキューを楽しみながら勉強したものです。また、ダイヤモンド・ヘッド・ハワイアン音楽フェスティバルはよい息抜きになりました。
明けて1973年のSpring Semesterでは、残された授業とともにThe Comprehensive Examination を受けパスしなければなりません。
社会言語学(socio-linguistics)に目を向けさせて」くれたE.A. Afendras先生
また、カナダのMcGill UniversityでPh.D.を取得した40才代男性のE. A. Afendras先生が担当したESL 660(Socio- & Ethno-linguistics)は、ESL 730(Seminar)におけるプロジェクトのframeworkを提供してくれました。Functions of Language in the Classroom(1972. D. Hymes, et al. Teachers College Press)、The Sociology of Language(1972. Newbury House)、Reading in the Sociology of Language(1968. J. Fishman. Mouton)、Language in Culture and Society(1964. D. Hymes. Harper & Row) などの社会言語学における必読書を読み、 monolingual、bilingual、multilingual社会の言語について学びました。先生自身、英語とフランス語のバイリンガルで、カナダのQuebec州での英語とフランス語の社会的状況についての話も貴重でした。フランス語から英語に、英語からフランス語に切り替える(code switching)時の社会的、心理的状況をリアルに話してくれました。
筆者がCal State Haywardで日本語を教えた日系3世を通して知った日系社会の言語事情を話すと、Afendras先生は、Honoluluの日系社会の言語実態調査をしたらどうかと勧めてくれました。それを受け、ESL 730(Seminar)では、“Japanese Language Phenomena in Honolulu: A Socio-linguistic Case Study ”と称するプロジェクトを行い、long-term paperに纏めました。(*14)また、キャンパス近くにある日系キリスト教会の細見牧師夫妻をはじめ約30名の日系1世の方々とも親しくなりました。沖縄から北海道までの日本各地の方言に標準語がブレンドして出来た上がった日本語の響きはとてもまろやかでとても印象的(impressionistic )でした。(*16)これら2つの授業を通して言語社会の多様性にも目を向けるようになり、GeorgetownのPh.D. programに関心を向けるもう一つの理由になりました。
「教材・教授法開発」の授業も充実
勿論、Area I Practicum(Method and Materials)も充実していました。特にESL 710 (Material Selection and Adaptation)では小学校、中学校、高等学校、大学、成人用の様々な英語教材の評価と選択、そして、補助教材の作成の仕方を学びました。担当のKenneth Jackson先生は長年の英語教員としての体験を基に、あたかも教材編集会議のような活気ある授業を展開していました
。
残念なことに肝心な「英語教授法」の授業はCrymes先生とPlaister先生の担当ではなかった
ESL 610(Teaching English as a Second Language)は、本来ならPlaister先生かCrymes先生が担当されるものと思っていましたが、両先生ともこの学年度には担当されていませんでした。とてもとても残念です。
TESL DepartmentのChairの任にあったCrymes先生は、40代の女性で、TESL分野では著名な研究者です。休日以外はChairのオフィスで筆者ら学生の相談に気さくに乗ってくれ、笑顔を絶やさず、学生と教員間のコミュニケーションの活性化に尽力した先生でした。昼休みを利用したdoggie bag meetingの開催はその一つで、学生と教員がランチを持ち寄り、TESL関連のテーマを出し合って気軽に意見交換をしました。学生と教員の間にある壁を取り払う効果があり、授業におけるdiscussionの活発化に大きく貢献したと思います。先生は温厚な人柄でしたが、学生の非礼な言動を看過せずに諭し、誰にも公平に接していた姿が思い出されます。
Crymes先生はその後国際学術学会に向かう途中の飛行機事故でご逝去TESL界にとって大きな痛手
筆者が最後に先生とお話しできたのはUHを去り5年後の1978年でした。GeorgetownでPh.D.を取得して日本の大学で教え始めた最初の夏休みを利用し、UHに立ち寄った時です。新学年度の準備で忙しい中、時間を割いて筆者を喜んで迎えてくださいました。残念ながら、それが先生と話す最後となってしまいました。1979年の10月に学術学会出席でメキシコに行く途中飛行機事故で帰らぬ人になられたからです。
1973年Spring Semesterの終盤に掛かり、筆者は、他の同期生と共にThe Comprehensive Examinationを受験しました。無事パスし、履修科目も修了してM.A. in TESL programを取得しました。
Spring Semester中頃には、入学願書を提出していたGeorgetown UniversityのPh.D. program in linguistics より、UHのTESL programを修了することを条件に合格通知が来ていました。(*17)幸いにもその条件を満たすことができたことになります。推薦状はPlaister先生、Whitman先生、Krohn先生に書いていただきました。言語理論、英語学、社会言語学、言語心理学、それに、言語教育がバランスよく勉強できるプログラムとしてGeorgetown のPh.D. program in linguisticsを推薦してくださいました。UHのTESL programは現在ではApplied Linguistics programに改名し、M.A. に加え、Ph.D. programも設置されたと聞いております。(2020年3月25日記)
次回(6-1)からはGeorgetown UniversityPh.D.コース
(*14)Miho Steinberg先生が読み、コメントしてくれました。Elective course のESL 310(The Language in Hawaii)が設置されており、UH全体にHawaii州で話される諸言語への関心の高さがありました。ESL 310は履修しませんでしたが、筆者のプロジェクトはこの授業のテーマと関連します。
(*15)音声学(phonetics)の分野にimpressionistic phoneticsがあり、ヒトの鼓膜で受信された音が知覚されるまでの音質効果を対象にします。Hawaiiの1世の日本語の詩的な響きはimpressionistic phoneticsで分析する価値あったと感じました。
(*16)2世、3世の多くは仲間同士ではpidgin英語で話していましたが、Mainlandから来た人にはStandard Englishに切り替えて話していました(code switching)。1世の多くは60歳以上で日本語のモノリンガルでした。あれから50年現在のHawaii日系社会は、高齢層の3世を筆頭に、4世、5世、6世の時代になっていると思います。ちなみに、筆者がいた頃のHawaii州におけるmajorityは日系アメリカ人で故ダニエル井上氏(上院議員、民主党、 後のWater Gate事件における上院倫理委員会委員)など2世が活躍していました。
(*17)文言からUH TESL M.A. programでの全履修科目の平均がAで修了するよう暗に求めているのを感じました。