小説 ふじはらの物語り Ⅱ 《陸奥》 22 原本
「先にも申し上げました通り、藤原広懐殿の当地におけるご処遇は決して苛烈なものではございませんでした。
それはただ、この地に末永く居つかねばならないというものであって、その限りにおいては、国府からずうっと食は提供され続けます。
身も自由で、もし、その気になれば、逃亡も思いのまま、実際そのような仕儀には、誰も追手を差し向けなかったとも考えられます。
万が一、それで京(みやこ)に辿り着けたとして、がしかし、そのことがあのお方の官人としてのご生涯に何か光明をもたらすことになろうとは、誰も思い寄らないことではありませんか。」
この言葉の“後”を、陸奥介は重々承知していた。
藤原広懐なる者が大織冠*の後裔に間違いないとしても、北家ではないのである。
*藤原鎌足
わざわざほうほうの体で京に禁を犯して立ち帰ったことに、一縷(いちる)の望みを託そうとすることも、ただひたすらこの地にあって果報を寝て待とうとすることにも、然して、この世では験(げん)がないであろうことに変わりない。
彼は、すでに終わった者であったのである。
そして、その家系も。
陸奥介は、藤原式家の系譜を何とはなしに頭に思い浮かべた。
広懐にまで下る方とは別に、確か二家ほどが、早い内にこれまた枝分かれしていたはずで、今ではせいぜい宮廷において、中の下ぐらいにしか行き着けないのであった。
それでも、家が廃絶するよりはマシと言うべきであろうか。
すでにかように零落(おちぶれ)ている一門に対して圧迫をして、どうなろうというものである。
広懐は、ささやかな立身出世の夢を、無残にも彼の関わり知るべきでない大いなる力同士の角逐の余波に散らしてしまった、と言わざるを得ないのである。
かような物思いをする陸奥介自身、“世知辛さはいずこにも忍び寄らずにはおかないものであろう”と、改めて身につまされるのであった。
「あのお方は、大学寮をお出になって官途に就かれた由し、そのようなお方にとって、かようにむさ苦しい辺境は本当に味気なく思われたことと拝察致します。無学な者ばかりが集う中にあって、形式の上とは言え、囚人の扱いに甘んじていなければならなく、どんなにかご自身の誇りを傷められたかもしれません。
世に『汗牛充棟』という言葉があるのを私も知っておりますが、蔵書を家の東から西に移すのさえ大変な苦労を伴うことは私にも分かります。
況して、京では当たり前に見受けられる書籍(しょじゃく)が、当地においてありもしないことなど、今さら驚くに値することはないのであります。
故に、勿論未だ当地には国学がございません。
確か、そうした状況をご存知であったのか、そうでなかったのかよく分かりませんが、あのお方がお持ち寄りになったのはせいぜい三、四冊ではなかったのかと記憶してございます。」