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小説 ふじはらの物語り Ⅱ 《陸奥》 27 原本

「広懐殿は、心身の健康を回復して行く中で、別の新たな希望をその胸に抱かれるようになりました。

それは、小さな子供達から、場合によっては、大の官人に至る者達に対して手習い、素読、そして、経文の解釈などをご自分の出来得る限りの奉仕により後ろ見ようとのご決意でありました。

そのために、私は何度か、あのお方から相談を持ち掛けられたことがございました。

そうそう、これは介殿には大変意外に思われるでしょうが、あの文室将軍は、広懐殿がこちらに追放されて来た当初より、あのお方のことについて何くれとなく目を掛けていらっしゃったものです。

況して、広懐殿が心の氷を融かされ始めてからは、お二人はまるで旧知の間柄であったかのように、意を通じ合う仲になられたのでございました。

結果として、広懐殿の当地における評価が俄然好ましいものに取って代わって行ったことを申し添えておきましょう。

一方で、あの橘殿は、何とかして広懐殿のお姿がご自分の視界に入らぬようにと腐心していらっしゃいました。

どうしても面会せねばならぬような折にも、敢えて目を合わせることを避けるようなふしがございました。

特段、広懐殿との相性がどうの、ということではなさそうでありましたものの。」

こう話して来た男の声にいよいよ重みが増して来たのは、これからである。


「段々とそのご運が開けていらっしゃったかのような広懐殿のご生活に、またとない好運が天からもたらされたのでありました。

妻の腹に子が宿ったのであります。

その時のあの二人の満面の笑みを、私は今でも涙なしには思い浮かべることが出来ない心地が致します。」

そして、男は一拍置いた。


「広懐殿は、まるで青年というか少年のようにも思われるほどに、ご自分のお子がご誕生になるまでの一切がっさいについて、余裕なくあたふたと立ち回っておいでになりましたが、それには必ず純粋な喜びなるものが付いて回っていたやに、私は拝察致しました。

片や、妻の方は、初産にも関わらず何とも肝が据わっているようにも思われまして、女というものはげに男とは違う“腹の据わり”を備えているものであると、傍(はた)から感心して彼女を見たような記憶がございます。

このくだりでは、陸奥介も深くうなずいた。

「あれはいつのことであったか、夕暮れ時、暖かく柔らかな日差しが横から射し込むような折、身重の妻を優しくかばう形で、広懐殿は彼女を野辺の美しい様を見に誘って行かれたものでございます。

あのように神々しい人間の夫婦(めおと)というものを私は目に致しまして、自らを反省するとともに、それでも私のような者に付いて来てくれている己れの妻への感謝の気持ちを、なぜだか深めたものでございます。

そして、いよいよ妻は出産の時を迎えたのでございました。

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一(はじめ)
経世済民。😑