小説 ふじはらの物語り Ⅱ 《陸奥》 39 原本
そして、刀自の娘、すなわち藤原広懐の娘は成長するとともに、以前ほど快活ににこにこすることはなくなっていった。
かと言って、誰も“彼女が陰気になった”など考えもしなかった。
よくて“年相応である”と認識したのである。
彼女は、別段家屋敷に引っ込むということもなく、陸奥介の子供達とよく外で遊んでいた。
野山を跋渉(ばっしょう)し、小川を越えて、夕日の美しい風景を見に行ったりなどもした。
また、彼女は、早朝の清冽な雰囲気を放つ様々な風物を目にするのも好きであった。
そして、陸奥介の家の末っ子が一人で動き回れるようになった頃、どちらかと言えば、彼の実の兄や姉よりも、彼女が その子につくという感じであった。
また、その子の母が家政や殿のこと、兄や姉のことで手が空かない時、刀自がその子の面倒に当たるといった折、彼女も往々にしてそれに加わった。
そんなようであったから、陸奥介の家の末っ子は、一家が京(みやこ)に“帰って”しばらくの間まで、彼女のことを「実の姉」だと思っていた。
彼にしろ、物心がついて、いずれそのあたりの事情を自然に知るべきであったろうに、それより前にそのことに関して耳を貸してしまったのである。
しかも、それは、どこにも見つけることの出来る意地の悪い者からの吹き込みであった。
その時からしばらく、彼はまともに彼女の顔を見ることが出来なかった。
後年、彼はそのことについて非常に悔いたものである。
まさに、その悔悟の念は、彼の逆境の時に増幅し、“人”というものの心情に思いを致すことが出来れば出来るほどに、己が心に深く突き刺さる棘(とげ)であり得たわけであった。
話しを彼女の陸奥における幼少期に戻すと、彼女はお母さん子であった。
無理もなからん、母一人、子一人であったのであるから。
けれども、不思議なことに、彼女は人前ではあまり母に近づく素振りを見せなかった。
大体において、“子供といえども、一定の年頃を経れば世間体を考える”、これに基づいていたのであろうか。
片や、自分達の住みかにおいては、つまり、納屋では駄々っ子と言えるくらいの甘えん坊であった。
この時期のことを、彼女はのちのち、折に触れては回想するのであった。
二人は就寝する時、もちろん一緒に寝た。
但し、たまに娘はちょっと母から離れてみて、言い知れぬ寂しさを感じようとするのであった。
最後に、陸奥介の家の末っ子は、両親や刀自、家人達、兄や姉、刀自の娘の可愛がりように十分応えるかのごとく、暴君ぶりを発揮するかと思えば、よく泣きじゃくったもので、それは、まさに末っ子の姿を体現していたのであった。