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小説 ふじはらの物語り Ⅱ 《陸奥》 37 原本

刀自はひらがなが読めた。また、漢字も幾つか知っていた。

ある時、嫡男が、満座の中で手習いに興ずるということがあった。

姫は母の膝の上。刀自の娘は陸奥介のすぐ前に立って、文机(ふづくえ)に両手を掛けて、紙上に目を凝らす。二男は刀自に抱(いだ)かれて、何事かよく分からない様子であった。

嫡男が“いろは”に相当する真名を書くと、その発音を刀自が試みる。

当たれば、皆が喝采するなどという一幕もあったのであった。



陸奥介はある時、刀自が子供達に向かって和歌の朗唱をしているのを耳にした。

「秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)を荒みわが衣手は露に濡れつつ」

また、

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」

そして、こんなものまでも、

「筒井筒井筒にかけしまろが丈過ぎにけらしな妹見ざる間に」


そして、こんなこともあった。

嫡男が論語の素読をしている時、これを傍(そば)で耳にしていた刀自が二男をあやすのをふと止めて、顔を上げたので、陸奥介や家族がそちらに目を遣ると、このように発声した。

「徳は孤ならず、必ず鄰有り」


そんなこんなの中でも、彼女が洗濯物を干している辺りからこのような経文が聞こえて来た時には、さすがに陸奥介は度肝を抜かれた。

「国の利器は、以て人に示す可(べ)からず」



刀自にはある才能が備わっていた。

それは、草花を生けることであった。

特に名のある草木や花々を意図的に用いるということもなく、その辺りで採ってきたもので一つの作品を生み出してしまうのであった。

それらは陸奥介の邸内に飾られて、人の目を楽しませた。

それは、押しつけがましくなく、まるで何気ないのであった。

残念ながら、娘にはその才能が受け継がれなかったようである。

子供の見よう見まねの業(わざ)の内にも〈ではしょうがないが〉、彼女は、よく手を拱(こま)ねいている間に素材を駄目にしてしまうということがままあった。

そういうこともあってか、彼女はのちのち、自ら母のように、生け花といったことに目を向けようとはしなかったものである。

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一(はじめ)
経世済民。😑